柴田純『江戸武士の日常生活:素顔・行動・精神』

江戸武士の日常生活 (講談社選書メチエ)

江戸武士の日常生活 (講談社選書メチエ)

 江戸時代前半の武士の思想・心性といったものを、日常の生活に絡めて論じた本。正直、思想史は苦手。読むのに時間がかかった。
 前半は、紀州藩の家老三浦為時とその侍読兼医師の石橋生庵の日記から、武士の日常生活がどのようなものであったか。後半は、武士の日常生活を踏まえて、武士社会の「道理」などの思想面について論じている。
 はじめにと第一章は全体の問題提起。福沢諭吉の言うような固定的な武士社会というのは前半には当てはまらないという指摘。藩主の専制に対し武家社会の安定を強調する「道理」概念によって諫言が正当化され、一定の歯止めがかかっていた状況。近世に生産力が増大した結果、飢饉から解放され、逆に統治者には民衆を「飢寒」から守る義務があるという観念が、武士・民衆双方に一般化したことを指摘する。


 第二章は、100ページほどとかなりの量を占める。次章とともに中心部分。前半は紀州藩の武士の日記から上級・下級の武士の生活について明らかにしている。勤務状況や健康、結婚と子育て、余暇などを扱っている。後半は、加賀藩の勤務心得から武家社会の主君への奉仕を中心として規律化の流れを整理している。
 勤務の状況や学問などの技芸が生計にもつ重要性。武家社会の作法を教化するための回路としての微罪の謹慎。武士と病の関係。家老衆にしても病気がちであった状況や病が窮乏へ繋がった状況。結婚と家の存続の難しさなど。


 第三章は、「武士の道理」を中心に議論している。『葉隠』についてかなりのページを割いている。
 「御家への奉公」を強調し、家臣の規律化を図る主君側とそれに対応し出奔や反抗、また主君との関係や技芸で立身出世を図る個々の武士たち。
 また、「武士としての義理や治者としての責任意識を内面化」する方向へ進んだ動きとして、紀州藩の二人の武士を紹介し、また、その関連で『葉隠』を批判的に紹介している。
 加納直恒の主君への献身的態度と家臣団の安定的世界の実現を目指し「義」に生きる生き方。また、藩政が乱脈に陥った状態で、命を賭して藩政批判を行った浅井駒之助の事例を紹介している。
 これに対して、『葉隠』を書いた山本常朝は終始、側仕えとして勤務したため、統治者としての責任意識が育たなかったこと。仏教的な無常観と主君への没我的献身によって、社会的意識が成長することなく、結果として具体性のない精神主義に陥ったことを指摘する。
 十八世紀には、治者としての責任意識を内面化させることから、それが藩から日本全体の立場へ拡張される方向性があった一方、『葉隠』はほとんど流布せず、藩校では批判されていたこと。近代の「武士道」再評価の中でも埋もれたままで、昭和の「軍国主義」の中で評価されるようになったこと。丸山真男を引きながら、『葉隠』の思想が軍国主義の「無責任体制」と親和的であったことから、喧伝されるようになったと指摘する。


 正直、よく分からないうえに、読むのにいように時間がかかった。


 以下、メモ:

 近世の譜代大名や旗本などは、徳川家の天下統一の過程で、急速に知行高を増加させていった。そのため、それぞれの家臣団を急激に増加させる必要があった。これらは、天下統一の過程で没落していった武田、今川、後北条などの戦国大名の家臣らによって補充されていったのであろう。そうした場合に、三浦氏と石橋氏のあいだでみられたような、血縁や地縁的関係が重要な役割をはたしていたと思われる。
 また石橋氏は、近世にはいって、石橋氏の同族間ではいうまでもなく、酒井氏や長井氏ともつねに密接な関係を維持しつづけていた。三浦氏もまた、養珠院を介しながら、同族間の結束を深めるとともに、婚姻関係を通じてより幅広い同族団的結合を強めていた。そのためには、しきりに手紙を取り交わしたり、祝宴を開いて旧交を温めるなどのことが必要だったのである。
 右のような同族団的ヨコの結合は、万一改易にあったときなどに、強い救援組織ともなりえた。そのため、この同族団的結合は、一藩内にとどまることなく、藩をこえたより広い範囲で結ばれるとき、一層その役割を高めたといえる。
 だが、主君の側からは、そうした結合は必ずしも好ましくなかった。一例をあげてみよう。
(中略)
 しかし、孫左衛門は、同年六月に、「吾邦、家臣之子弟他邦に往くを禁ず、故に応諾し難き者也」と返書し、この件を断った。この返書から、当時紀州藩では、藩をこえて養子縁組することが禁止されていたと推察される。つまり、主君の側では、同族団的結合が他藩にまたがることなく、なるべく藩内のみで完結することが期待されていたといえる。右のような事実は、武士社会内部で、上下間に、一定の内部矛盾があったことを知らせてくれるのである。p.45-6

 幕府が武士の縁組を統制したのと同じだな。あと、この「内部矛盾」って言い方が昔風だなと感じる。

 生庵が、抜参りをした太郎吉を叱らず、参宮の日に一家で祝っているのは、当時伊勢参宮が子どもから大人になるための一つの通過儀礼になっていたことを示し、太郎吉はこうして一人前になったのである。p.97-8

 通過儀礼としての伊勢参宮。

 このころには、園芸や花見がさかんで、為時は、梅見にはじまって、桜、海棠、牡丹、杜若、蘭、菊などを鑑賞しており、生庵も牡丹、蘭、菊などを自分で咲かせていた。なお、生庵は、生計のためか麦や筍などを栽培してもいた。p.102-3

 17世紀の後半あたりの状況。当時の園芸文化における武士の占める位置というのは大きかったのだろうな。肥後六花なんかも、武家の活動が淵源だし。

 そこには主君の「不調法」を正すことで、自己の責任をはたすという意識はまったくみられない。そのため、個人の責任問題にはふれられても、社会的な責任意識にまで展開していくことはなかった。のみならず、主君にたいしてもなんらの責任も求めなかった。その結果、責任の所在が不明になり、全体が無責任体制に陥ることになった。そこに、常朝の治者としての責任意識の欠如をみることができる。p.182

 しかし、それにしても、常朝のいう奉公には、いかなる奉公なのかという、奉公の具体的内容がまるでみえてこないのである。結局、常朝においては、仏教的無常感と主君への没我的献身とによって、社会的意識が成長することが阻まれてしまい、一方で内面性の重視を説きながら、それが社会意識と切り結ぶことがなかったため、「道」が主観的願望の域を出ることなく、結果的に精神主義のみが強調されて、いわゆる心がけ論に終わってしまったのである。p.186

 『葉隠』の問題点。

無責任の体系
 丸山真男は、『現代政治の思想と行動』に収められた「軍国支配者の精神形態」という論文のなかで、当時の「軍国支配者」たちが、(1)「既成事実への屈服」と(2)「権限への逃避」によって、「自己の無責任」を主張する根拠にしていたことを明らかにし、「日本ファシズム支配の厖大なる『無責任の体系』」、つまり支配層が一様に「主体的責任意識」を欠如させていたことを明らかにした。
 その際、「既成事実への屈服」とは、「重大国策に関して自己の信じるオピニオンに忠実であることではなくして、むしろそれを『私情』として殺して周囲に従う方を選び又それをモラルとするような『精神』」であり、「現実はつねに未来への主体的形成としてでなく過去から流れてきた盲目的な必然性として捉える」ことであった。また、「権限への逃避」とは、「訴追されている事項が官制上の形式的権限の範囲に属さない」ということであった。
(中略)
 すなわち、両者においてはいずれも、自分の現にある生きた現実にたいする責任意識が希薄であったことが知られる。その結果、「(葉隠の)文中に出て来る『国学』とは、藩の歴史、風俗といった広い意味で『お国ぶり』とでもいうべきであるし、『主君』とは藩主を指す。これが後年、国学は日本の歴史、主君は天皇というように拡大して解され、指導され」、「『葉隠』はわが国有数の武士道教本として」(前掲「随筆『葉隠』)軍国日本のなかでさかんに喧伝されていくことになったのである。
 ここで重要なことは、『葉隠』が軍国日本で喧伝された理由は、たんに武士道書として「武」を強調するためとか、教訓的な勇ましさを強調するためにあったのではなく、軍国日本の「無責任体系」に通じる側面があったからであり、かつ、「軍国支配者」の精神構造に適合的な思想であったからなのである。そして、この喧伝のなかで、『葉隠』は、あたかも近世武士の典型であるかのような虚像が創作されていったのである。p.198-200

 『葉隠』と軍国主義の親和性の話。