渡邊大門『戦国誕生:中世日本が終焉するとき』

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

 15世紀半ば、足利義政が将軍の時代の室町幕府の権威が低下し、分解していく状況を描く。幕府や朝廷、守護などの「権威」が解体し、在地で実力を持つものが政治の主導権を握るようになっていく状況を指して、「戦国の誕生」と指摘している。義政時代の足利幕府の政治史を、さっくりと知ることができる著作。
 義政の時代、有力守護家の内紛に将軍をはじめ、細川、山名などの有力者が介入し、混乱を徒に長引かせたこと。これが、最終的には応仁・文明の乱を呼び、幕府の権威を決定的に傷つけたこと。長引く騒乱が、実際に軍事力を動員できる守護代層の台頭を呼び、守護の地位を空洞化させていった状況を描く。
 一方で、中央の政治史に集中したことで、説明できていないところもあるような。足利義政を中心に、室町幕府の有力者たちが、時々の都合で政治判断をころころと変え、それが対立を長期化させ、大規模な騒乱を引き起こしたことは分かる。しかし、なぜ、そのように判断がぶれたのか、その背景にある人間関係や判断にいたる根拠がないと、単純に無能とは言えないのではなかろうか。あと、守護代層が台頭した在地の側での社会構造の変化も考えに入れないと、「形式」から「実体」の転換という状況が解明できないのではないだろうか。
 しかしまあ、当時の有力者細川勝元山名宗全足利義政たちが、時々で敵と味方を取り替えて、かつての敵と手を組んだりする様はすごいな。仁義なさすぎというか、わけわかめというか。あと、奉公衆なんかの室町幕府の軍事力って、結構あとまで維持されていたんだな。


 以下、メモ:

 このときに問題となったのが、奥州探題大崎教兼を中心とした奥州の武将らをいかに動員するかであった。先に触れたとおり、義敏は大崎氏と入魂であったが、あらたに斯波家を継いだ義廉は決してそうではなかった、さらに、義廉の父渋川義鏡は失脚しており、かつて義敏と激しく対立した甲斐常治もこの世になかった。義政と貞親はこの段階で義敏を復帰させ、大崎氏との交渉を円滑に進めようと考えたのである。一度追放した人物を再登用したのであるから、義政は相当困っていたのであろう。
 ところが義敏の復帰は、そのまま義廉の没落へとストレートに繋がってゆく。義廉も保身のために、新たな対抗策を講じる。これが後述する文正の政変であり、未曽有の大事件へと発展するのである。義政と貞親は「目的のためには手段を選ばない」という。ある種の身勝手な考えによって、自らの首を絞めることになる。p.82

 なんというか、裏切りすぎな感じはあるけど、どうしてこんな変節を繰り返せたんだろうな。そのあたりの心性がよく分からない。

 原則的に考えると、将軍は朝廷から補任されるものである。しかし、義政は将軍に付随した諸権限は、実力支配によって獲得したものであると考えた。義政は将軍を辞した後も今までどおり政務を行い、世襲である将軍には、子息の義尚を就任させた。将軍職は必要であったが、義政は将軍職の保持の有無にかかわらず、自由に執政できる体制を築いたのである。つまり、先行研究の指摘するように、このことは将軍職の保持と実際の政務を分離することになり、将軍職を足利家で自由に譲与できることを意味したのである。
 このような「戦国的将軍観」は、守護の「実効支配」という観念とリンクするものであった。先の赤松氏の事例でも見たとおり、守護職の補任を要することなく、実効支配を確立しえたのもこの時代の特色である。守護職(領国の支配権)は幕府から与えられるものでなく、「自ら力で勝ち取るもの」という意識が高まり、やがて守護職そのものは形骸化してゆく。いわゆる「戦国」のはじまりである。
 要するに実効支配があくまで先行し、「将軍職」や「守護職」などの形式は、後からついてくるものであった。すなわち、「形式」から「実体」へというのが、この時代の大きな特色を示しているのである。形式的な「戦国的守護観」というものに関しては、次章で検証することとしたい。p.186-7

 もともと、官職と実権には相違があったんじゃなかろうか…

 守護によっては、守護職補任を命じる御判御教書がない(あるいは残らなかった)ケースもあったが、基本的には御判御教書によって補任が行なわれたのである。注意すべきは幕府から補任されることが基本といいつつも、実際にはその家や家臣など内部での合意が必要であったことである。上からの一方的な補任には反対されることもあり、家の意思が尊重されることもあった。守護職の補任が守護職家の家中や在地から承認されるか否かは、家督継承者の才覚(能力)に左右された面がある。単に嫡男であるからという理由だけでは、家督継承は難しかったのである。時代を経るにしたがって、こうした傾向はますます強くなってゆく。p.192-3

 もともと、足利幕府の政体には、個人の能力に依存するところが大きかったように思える。

 明応の政変によって解体したのは、将軍権力だけではない。将軍直轄の軍事力である奉公衆も解体し、将軍は軍事的基盤を失うことになる。以後の将軍は、有力武将との連携が重要な鍵となり、彼らの支援なくしては将軍としての地位を維持できなくなっていた。その辺りを政元や義材・義澄(義高)の事例から、もう少し考えてみよう。p.248

 逆に言うと、1493年の明応の政変までは、直轄軍事力を維持できていたんだな。

 これまで見てきたように、公家は朝廷儀式を正則にしたがって実行するために、さまざまな努力を行なってきた。そのために、われわれ現代人から見れば、少々過剰ともいえる「先例探し」に明け暮れていたといってもよい。もちろん「先例探し」は彼らの「業務」であり、その卓抜した知識を生かす場でもある。しかし、宗全はちがっていた。さすがに裁判などでは過去の判例を重視する必要はあるが、現実社会への対応は「過去の例」に学ぶのではなく、現実や先を見通していかに対処するかを重要と認識したのである。p.264

 この時代には、朝廷そのものの存在意義が過去の先例に従って儀礼を執行することに限られていたからではなかろうか。実権を失ったからこそ、儀礼にこだわる。「先例」は伝統を持つ公家が存在意義を主張する手段だったのだと思う。
 『藤原道長の日常生活』を読むと、実際に統治を実施していた時代には、「先例」はそれほど表に出てこなくて、衰退過程で故実が整備されていく。現実にあわせて、割と融通していたわけで。