南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

 ローマ帝国の西半の支配の瓦解を、「ローマ市民」というアイデンティティの変質、外部の人を受け入れる開放的なものから域外からの移住者を排斥する閉鎖的なものへの変化を軸にまとめている。まあ、単純化しすている感はあるが。排外主義が致命的な影響をもたらしたというのは、現在の日本が直面する状況と重なるなあ。4世紀の終盤まで、国外の「蛮族」に対して軍事的優勢を維持していたこと。これが、40年ほどの間に瓦解したという。


 第一章は最盛期のローマ。国外諸勢力への軍事的優勢。その基礎として、「ローマ市民」の意識があり、多くの人々を取り込んでいくことが帝国の力となった。また、属州の有力者などを取り込んで、帝国の行政を担わせると同時に、その在地支配を強化する梃子とする「共犯関係」が、帝国の求心力の維持に資したという。
 他にも、ローマ帝国の国境が、明確な線ではなく、交流を可能とする領域的な存在であったこと。外部の有力者にも、ローマ化の影響がおよんでいたこと。「ローマ化」といっても、在地の民衆までには浸透していなかった状況なども興味深い。
 第二章は軍人皇帝の時代からコンスタンティヌス大帝の展開。混乱を収拾したディオクレティアヌス帝は軍人皇帝時代の流れを継ぎ、元老院議員を排除し、騎士階級を重用した。一方、コンスタンティヌスは帝国の西半では、在地有力者と妥協し、元老院議員格、セナトゥール貴族を取り立てる一方、東半ではディオクレティアヌスの流れと征服者であることから中央集権的な政治を形成するという、制度の違いを作り出した。また、「ゲルマン人」を軍人として登用する、野戦機動軍の編成などの改革を行なった。一方で、後継者を明確にできなかった弱さも指摘される。
 第三章はコンスタンティヌス大帝の後継者の争い。親族同士で相争った結果、コンスタンティウス2世が唯一の皇帝になるが、ユリアヌス以外の親族男性が存在しなくなった。また、治世初めの親族殺害事件やマグネンティウスに加担した勢力の粛清などの政治的迫害、キリスト教の強制など、自由が失われていく時代であったこと。皇帝側近の力が強くなり、後の禍根になった。
 第四章は「背教者」ユリアヌス帝の皇帝就任の経緯。唯一の親族として、ガリアの副帝として送られ、徐々に経験を積んで力をつけていく。周辺部族との戦争により国境を安定させ、周辺部族からの人材を登用。また、税金の引き下げなどの改革を行い、支持を得る。しかし、皇帝から戦力の過半を援軍として送るように命じられたことから関係が悪化。ガリア人の兵士が東方への従軍を拒否、ユリアヌスを皇帝として推戴する。直接的な軍事対決の直前に、コンスタンティウス2世が死去し、皇帝となる。しかし、程なく諸勢力との対立、無理なペルシア遠征で戦死する。ガリアを皇帝権力に結び付けたと同時に、東方への移動によって西方は置いていかれることになったという。しかし、ガリア人兵士の反発は、既にこの時期に帝国の西半と東半で遠心力が働いていたように見えるな。
 第五章はユリアヌスのあとを継いだウァレンティニアヌス朝の時代。ウァレンティニアヌスとその弟ウァレンスの分担統治によって、外部から侵入しようとする勢力に対し優位を維持し続ける。この間、ローマ帝国の外部出身の人物が要職に就き権威も持つようになったこと。同時にガリア地域を中心に地元出身の兵士と有力者が結びついた独立的な勢力が出現したことも指摘される。このような状況のなか、ゴート族の侵入が始まり、功をあせったウァレンス帝の敗北により、帝国は危機にさらされる。帝国の東半はテオドシオス帝に任せられることになる。
 第六章はテオドシオス帝による帝国の一時的再建と、息子たちへの分割相続。テオドシウスの後継者はまだ若く、帝国の運営は補佐役に委ねざるをえなかった。しかし、その補佐役同士が対立し、帝国は分裂していくことになる。この時期には、今まで外部の人材を受け入れてきた「ローマ人」意識が変わり、排外主義的な気風へ変わっていく。皇帝権力と結びついて栄達した外部世界出身者への反発、またローマ風の風俗を受け入れようとしない「ゲルマン人」の増加から逆に「ローマ意識」が高揚するという状況になった。また、西半は東西対立の中、国境地域からの軍隊引き上げが「ゲルマン人」の大規模な侵入を引き起こし、帝国の地域支配は消滅することになる。


 以下、メモ:

 ホイタッカーによれば、軍隊駐屯線の外側二〇〇キロメートルくらいまでの地域、図のBの地域からは、ローマ風の日常生活の物品や貨幣が出土している。しかし、Cになると、銀製品やガラス製品など、明らかにローマ側から贈られた奢侈品は発見されるが、ローマ風の日常生活の物品はほとんど見られない。また、B地域の日常生活に関わるローマ製品は有力者の住居跡などから発見されており、B地域では有力者がローマ的な生活への志向を強く持っていた一方、一般の住民には及んでいなかったことも知られる。これは、帝国側の軍隊駐屯線の周辺地域Aでも同様であった。つまり、ローマ軍の軍隊駐屯線の両側に、ローマ帝国からその外部世界へと移行する「ゾーン」が形成されていたわけである。これがフロンティアである。p.31

 ゾーンとしての国境地域。軍隊駐屯線の外側からも、軍隊へ供給する物資が集められ、同時にローマ的生活への志向を持つ有力者層が存在したという。

 欧米の歴史家は長らく、征服地の先住民がローマ人のもたらす「文明」を後生大事に有り難がって、ローマ人になりたいと皆が思っていたと検証なしに想定してきたが、私は、属州ブリタンニア(ローマ時代のブリテン島)の研究を通じて、ローマの生活様式、文化の浸透は緩やかで、都市市民など限られた人々に行き渡ったにすぎないと感じている。
 新たに属州とされた地域では、有力者たちは帝国統治に協力したり参画するようになっていったが、一般住民のほうも同じく熱心に「ローマ人」たらんとしたと想定することは難しい。ローマ帝国が被征服地に都市を建てローマ風の生活様式を導入し、法やラテン語、ローマ風宗教などを伝えて、高度の文明生活へ導こうとした政策を、歴史家は「ローマ化」(英語でRomanization)という概念で呼び、ローマ帝国の世界史的意義として強調してきたが、考古学的な研究の進展で、ローマ化の政策が従来想定されていたほどの効果を上げておらず、その影響は都市や要塞周辺、ウィッラに限定されていたことがいまや明らかになっている。そればかりか、「文明化」と同じ意味を持たされた「ローマ化」の概念自体が、ローマ以前の先住者たちの歴史と文化を無視した偏った概念であり、ヨーロッパが帝国主義的な植民地支配を展開していた時代に、その現実と結びつけて案出された概念であると厳しく批判されてもいる。
 属州の一般住民がローマ帝国にどの程度の帰属意識を持っていたかは、史料から断片的にしかわからない難しい問題である。ローマは征服地において、自分たちの生活様式を先住者に強制することがあり、それに対して先住者が、政治・軍事的な反乱だけでなく表に現われない「抵抗」を試みたことも、生活や文化の遺物から知られている。また、属州で花開いたローマ文化が、イタリア風のローマ文化と先住者の文化という純粋なカテゴリの単なる合体ではなく、支配権力ローマに対する「抵抗」も織り込んだハイブリッド(混淆)な性格であったことも、学界で指摘されている。いずれにしても、全住民に対するローマの求心力を過度に想定することは控えたほうがよいと思われる。p.41-2

 ローマ化の「実態」。抵抗か。