吉田典史『震災死:生き証人たちの真実の告白』

震災死 生き証人たちの真実の告白

震災死 生き証人たちの真実の告白

 「ダイヤモンド・オンライン」で連載したインタビュー記事を、加筆修正して、単行本化したもの。震災直後に検死に当たった医師たち、遺族、捜索に当たった人々、メディア、地震学や防災学者などの5章に分けて、人々が「死」にどのように向かい合ったかを追求している。個々のインタビュー記事はそれなりにおもしろいものの、本全体の構成として考えると、テーマが散漫になってしまっているように思う。個人的には、一章の検死の問題点、最終章の学者へのインタビューが興味深かった。
 個人的に一番印象的だったのは、都司嘉宣氏へのインタビュー。奥尻島津波では流されて翌日救助された人がそれなりにいたのに対し、東日本大震災ではほとんどいなかった。これは強力な引き波とそれが海岸で滝つぼのようになったことで、砕かれてしまったという。それだけ、桁違いに巨大だったってことだよな。質量の差が、引き波のパワーの差になった。
 また、第一章の検死医や歯型の記録に当たった歯科医のインタビューも興味深い。先に読んだ『遺体』とも重なるが、検死時の混乱。慣れていない医師も動員された結果、死亡原因の確定や歯型の記録が不十分なものになってしまった。警察との役割分担や手順が練られていなくて少ないマンパワーが無駄になってしまっている状況やデンタルチャートの様式が統一されていない問題など、様々な問題点が指摘されている。
 第五章の他の研究者へのインタビューも興味深い。被災者へのアンケートから、どのような行動を行なったのか。多くの人が津波が自分のところに来ると考えていなかったし、自宅の片付けなどを行なっていた状況。広範囲の停電による情報の収集不能防災無線が機能しなかったこと、最初に小さな予想数値が流れたこと、これらも複合して、避難意識を落とした側面があると。あるいは、ハザードマップが、災害の規模に対する認識を固定してしまっていた問題。改めて思うのは、本当に激甚な災害では、ハードは機能しないことを前提に、考える必要があること。阪神大震災でも中越地震でも、本当に被害の酷いところは、情報発信ができない。立派な通信設備を整備しても、震度7クラスの揺れでは、ぶっ壊れることを最初から考えて、対策を考えるべきと。


 第三章の、捜索に関わった人々も、全体の統一感には乏しいものの、興味深い。消防団、警察航空隊、災害救助犬トレーナー、海保の潜水士、自衛隊。地域の防災の一線を担う消防団が、その設備や待遇に比して、過大な任務を背負っていた状況。結果として、多数の犠牲者を出した。にもかかわらず、遺族への補償も減額される。消防団員の殉職に対しては、公費補償を考えるべきだよなあ。水門開閉に従事していて逃げ遅れた事例が多いが、これが国・自治体の経費削減策で、消防団に押し付けられた任務であったことが指摘される。水門開閉は別の組織で担うか、消防団が担う場合は遠隔操作ができない状況では、それ以上の対応をとらず、避難すべきだろう。
 航空隊から見た被災地。上から津波が迫っているのが見えても、地上の人々はなかなか動かない。ヘリコプターから呼びかける手段が少ない。ただ、座視するしかない苦しみ。災害救助犬が現場では急激に消耗するとか、本書に出てきた救助犬が嗅覚に深刻なダメージを受けてしまった話。
 自衛隊が災害時に何を担うべきかという問題も興味深い。確かに東日本大震災では、自衛隊が便利使いされている感はあるな。とはいえ、交通も寸断され、燃料も足りない中で、まとまったマンパワーを持ち、衛生・土木機材を自前で持つ自衛隊が引っ張りだこになるのは、ある程度しかたない部分があるとは思うが。しかし、さすがに「女性の自衛官らが避難所を回り、被災者に体の具合や何か不足していることなどを聞いていた」(p.181)はあんまりだな。こういうのは、保健福祉関係の組織がやることだろうし。公衆衛生や保健関係の人員を被災地に送り込んで、被災者の健康状況をモニターする体制の構築を考えるべきなんだろうな。


 本書を読んでいると、ちょっと首をかしげるところも。そもそも、インタビューの集成という本書の形式では、「検証」といっても、限界があるのではないだろうか。
 また、「自助」と「公助」を分ける考え方は、むしろ有害なのではないだろうか。確かに警察などの公的機関ができることも少ないだろうけど、個々人ができることはもっと少ないわけで。大災害状況下で、停電してしまうと、ほとんど目の前のことしかわからなくなるのが現実ではなかろうか。
 あと、「無責任で無邪気」とか、「無邪気で残酷な」空気という表現も、なんか違和感を感じる。確かに、頑張ろうといってもねというのはあるのだろうけど。
 津波災害の検証が、原発メルトダウン関連の報道で塗りつぶされてしまった感は、確かにあるな。どのように人々が行動し、どのように犠牲になったかの検証は必要。さらに、被災者への支援やそのための制度など、検証整備することはたくさんあるよなあ。日本でも、各組織の調整を強力にできるFEMA様の組織は絶対に必要だと思うのだが、阪神大震災の時には多かったのに、東日本大震災後には声が小さいのも印象的。


 以下、メモ:

 一方で、南にある地域では、津波が流れてくる流速で亡くなったと思える人が多かった。田園地帯が多く、波をさえぎるものがなかったために、一段と加速したのではないか。足が切れて無かったり、頭が割れていたり、胸にがれきが刺さったままのものがあった」p.10

 宮城県などの平野部。平地の津波も怖いな。

「そのご遺族は、『家族を見つけ出す』という意識を強く持っていたはずで、それは能動的なもの。つまり、自らの心を無意識のうちにコントロールしている。それがフィルターになっているから、損傷の激しいご遺体を見ても刺激が少ない。反対に、自分の意思に反して見せられると、強い刺激を受けやすい。これが繰り返されると、PTSDになる可能性がある」p.41

 つまり、職務として動員された現地の公務員や、自衛官・警官あたりがなりやすいってことなのではないだろうか。

「道路を隔てた町に住む人たちの多くは、海外沿いの町で何が起きているのかを把握できていなかった可能性がある。停電が復旧した後、テレビでその様子を見て、『こんなにひどかったのか』と驚く人もいた」p.147

 可能性じゃなくて、実際、把握できなかったんじゃないかね。テレビがなくなると、目の前以外のことがわかりにくくなるからな。

「いったん海水に落ちたら、逃げ出すことが難しい。しかも、この滝つぼでは下に叩きつけられる。相当に手荒いことをする。人間が、水の中で生命力を保つことは不可能に近い」
 その後、被災地でのヒアリングや、新聞記事などの精読を通して、津波が押し寄せた後、海水を浮きながら生き延びた人がほとんどいないことに気がついたという。
北海道南西沖地震(1993年)で津波に襲われた奥尻島では、地震があったのが午後10時30分過ぎだった。その日の晩、海水に浮かぶ家の屋根を漂流し、翌朝、海上保安庁などに助けられた人が多数いた。それに比べて、今回は相当に少ない」
 女川町で驚いたのが、がれきの実態だった。その大半が家や建物などの屋根や柱、家具だったが、形が崩れ、原型がわからない。まさに「がれき」と感じたという。
奥尻島にも十数回行ったが、今回ほどに建物は粉々に潰されていなかった。想像を超える破壊力であり、人の体にこの力が加わればどうなるかは、おおよそ察しがつく」p.236

 怖い。
 巻き込まれたら、助からないと。場所によっては、必死に浮かぶものにしがみついて助かった人もいるようだから、場所によって差があるとはいえそうだけど。質量のある水ってのは、凶器だな。

 小学校の体育館と寺院における住民の避難行動を調べると、都司氏は避難所に指定する場所の要件がわかるという。
「標高15メートル以上のところにある建物で、中から外の状況、特に津波が来る方向を一望できること。そこから、さらに高い位置の避難所に移動がスムーズにできること。これらは少なくとも要件と言える」p.240

 外部の状況がわからないと、想定以上の津波で避難所が危険になった時に、避難行動を起こせないと。海側に眺望がきくことは必須と。つーか、津波からの避難を考える時、海への眺望は重要だけどな。しかし、それは防潮堤などの水防設備と矛盾するという。

 そして、ひたすら「被災者がかわいそう」といった情緒的な報道がなされた。その中で、感覚的な世論が出来上がっていった。その1つの象徴が、「今回の津波では堤防や防潮堤が壊された。今後はもっと強固なものを造ろう」といったものである。p.274

 かかるコストや現地の生活実態を考えると、無理な話だよな。堤防の後ろに住む人はいないみたいなことになりそう。むしろ、被災者に金を配ったほうがまだ復興しそうな気がする。