奈良事件で思ったこと

この事件の背後には、「近代」を担う人の権威の低下があるように感じる。
この問題については、医者のみならず、官僚・学者・マスコミ人・法曹関係者・教師などにも当てはまるだろう。


「近代化」以前。日本では高度成長期以前には、「世間」「伝統」といったものと「近代」の乖離は、近代化の要請から、「近代」を優先する形で均衡していた。
近代化の使命を担う藩屏たるこれらの人々は、一般社会の常識・感覚から乖離した方法・物事でも、「近代」という権威によって押しつぶして前進することができた(例えばダム建設)。
法律を例にとれば、明治期に外国の法を「近代法」として導入している。しかし、民法典の導入に手間取ったように必ずしも日本の社会の実情に合っていなかったし、ある面では実情に即していなくても、実際の紛争解決は、法とは別のルートを介しても対応できたので問題がなかった。


しかし、第二次世界大戦の敗北によって、軍に留保されていた資源(資金・資材・人材)が民間に解放され、80年代には「近代化」は達成される。
(その意味では戦後日本の近代化は当然の事態であり、官僚の近代化への役割はたいしたことがなかったのかも知れない)
近代化が達成されてしまえば、「近代」を担っていた人々の権威は当然低下する。
医者や学者はかつてのようにとんでもなく偉い人ということはなくなる。法曹・官僚の調整もかつてとは同じように行かなくなる。マスゴミ批判も、同じ次元に位置するだろう。
もはや、教化の時代ではなくなるのである。
そのような時代には、いろいろな人々の合意を取り付ける、コンセンサス形成が特に必要になる。
裁判員制度の導入の試みは、そのような動きのひとつと捉えられるだろう。インフォームド・コンセントもそのひとつ。


しかし、医師と患者の紛争、医療と司法の問題では、いままで充分な対策がとられないまま、放置されてきた。その結果、今年に入り福島事件、今回の奈良事件と、一気に医療(救急や産科)が崩壊の危機に瀕する状況に至った。
これは、制度的に対応する必要がある事態だろう。
対応策のひとつとしては、06/5/17の朝日新聞に紹介された裁判外紛争解決手続き(ADR)は有効だろう。感情を害している患者と専門的見地から「説明」する医者の間に翻訳する人を入れるのは理に適っていると思う。しかし、医者の負担はけっこう大きそうではある。
あとは、裁判制度も改革が必要そうだ。「知財高裁」があるのだから、医療裁判所があってもいいと思うのだけど。


ちなみに、このような「近代」と「世間」あるいは「伝統社会」の乖離は、発展途上国のほうが甚だしい。
例えば、『ルワンダ中央銀行総裁日記』に描かれるように、ルワンダでは、「近代」を担うエリート層・外国人と一般の国民の間では、そもそも言葉も通じない。著者は、はじめてルワンダ人の話を聞いたと感心されているくらいだから、かなりの没交渉だったのだろう。
また、『イルカとナマコと海人たち』では、このような行がある。

東南アジアの海岸部では連綿として漁撈活動が行われてきている。戦後数十年、漁撈活動をめぐる状況は技術、経済、政治面において変化してきたが、マクロ・レベルの変化とは別次元の漁業形態、つまり仲買人と零細漁民の関係は継続されてきている。小規模漁民の多くはマレーシアの漁民協会には属しておらず、したがって公的な機関ではその活動がほとんど把握されていない。上に述べたスンガイ・リンギットの漁民協会の役人は中央で大学教育を受けたエリートである。私は英語が上手な彼にマレー漁師への紹介を願った。しかし彼はマレー系なのに、「あの連中は、考え方に問題があるから…」、とためらいを見せた。結局、私は同じ町の別の漁港に集まる華人漁師に紹介された。
(p.197)

地付きの社会と近代を担う人々の間の「通訳」の問題は、日本のみならず、世界各国にも適用できる問題なのだと思う。