間庭充幸『若者の犯罪凶悪化は幻想か』途中放棄

若者の犯罪 凶悪化は幻想か

若者の犯罪 凶悪化は幻想か



まあ、表題からして、どういう結論かは分かっているようなものだが。
社会学者としての評価はどうか知らないが、紋切り型の表現ばかりでうんざりする。これは、一般向けに書かれた本書だけの特徴なのかもしれないが、付き合いきれない。

第一に、高度情報化は社会のシステム化あるいは人為的構成性を高めるが、最近の映像技術の進歩による高画質化は虚構性さえ自らの内部に取り込み、いよいよ現実と虚構の境界を曖昧にする。とくに実体験の乏しい少年にとってはその区別が困難となり、彼らがバーチャルな世界の方に一層のリアリティを感じるのは必然的といってよい。
第二に、そのようなバーチャルな世界(コピー社会)の中で一方的に情報のシャワーにさらされていると、アイデンティティの形成が大変に難しくなる。アイデンティティは葛藤や闘争をも含む他者との具体的な交流の中で育つものだからだ。断片的な知識(情報)は過剰に持っているが、一貫した思考力に乏しく、一人よがりで、自分の欲望が満たされないとたちまち怒り出すような、抑制のきかない、そして共感性に乏しい若者が多くなってきているのもそのためであろう。
(p.10-11)

凶悪犯罪を犯した若者が一様にメディアの中のヒーローを自らに仮託して犯行に及んでいるのも、
(p.49)

はいはい、バーチャル、バーチャル。
どこに根拠があって、「共感性に乏しい若者が多くなってきている」のか、根拠をはっきりとさせて欲しい。
あと、後者は本当かいな?

最近の青少年犯罪には新しいタイプの凶悪性があり、量的変化を見るだけではその正体を究めたことにはならない
(p.52)

このような考え方は、部分的に受け入れてもいいかもしれないが、それが「凶悪化」したことになるかは疑問だ。
先日、1977年1月の朝日新聞の縮刷版を全部チェックしてみたが、小学6年生による幼児のレイプ殺人事件が報じられているように、基本的には人間の凶悪性は変わっていないように感じる(このあたりはもう少しきっちり調べてからにすべきだが)。
そもそも、人間が犯す殺人事件は、どれをとっても割と他愛のない動機で犯されている気がする。