E・H・カー『歴史とは何か』

歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

 大学1年のゼミで読まされて、さっぱり理解できなかった本にリベンジ。しかし、古典ってのは読んでいてそんなに面白くないというか、読んで苦労するというか。ずいぶん時間がかかった。
 最初の2章は穏当な議論。中庸な立場を慎重に維持している。それが本書を「古典」にしているのだろう。有名な「歴史は、現在と過去との対話である」の台詞だけでなく、人間は社会との相互作用する存在であり、「歴史家とその事実との相互作用という相互的過程は抽象的な孤立した個人と個人との間の対話ではなく、今日の社会と昨日の社会との間の対話なのです」(p.78)という一節には非常に感銘をうけた。
 一方で、それから後、特に「進歩」にかんする感覚は事情にかけ離れていると感じる。時代の違いが顕著。今となっては、人類の進歩というのを信用するのはちょっと無理というか。「認識」が拡大するという点では非常に穏健な意見だとは思うが。

 経済から始めましょう。一九一四年までは、客観的な経済法則が人間や国家の経済的行動を支配していて、これを無視すれば自分たちが損害を蒙るという信仰が実際にはまだ不動のものでした。景気循環、価格変動、失業などはこういう法則によって決定されていました。大不況が始まった一九三〇年でも、これが支配的な見方でした。ところが、その後は事態が急速に動きました。一九三〇年代になりますと、人々は「経済人の終焉」ということを言い始めました。「経済人」というのは、終始一貫、経済法則にしたがって自分の経済的利益を追求する人間という意味ですが、この時期以来、少数の十九世紀の生き残りを除けば、もう誰もこういう意味の経済法則を信じるものはいなくなりました。p.210

 「意識的努力による社会改革が可能であるという信仰は、ヨーロッパの支配的な精神的潮流である。これは、自由を万能薬のように見る信仰にとって代わった……現在におけるその流行は、フランス革命当時の人権の信仰と同じように重要な意味深いものである。」
 この言葉が書かれてから五十年経ち、ロシア革命から四十年以上も経ち、大恐慌から三十年経った今日では、こういう信仰は平凡な話になってしまいました。p.212

このあたりのくだりなどは、まさにこの時代までの考え方で、80年代以降は揺り戻しが起こっている。本書においても、「歴史は、現在と過去との対話である」ということなのであろう。

もう一つの危険は、三十年ばかり前にカール・マンハイムが予想したもので、今日では非常に広く見出されるものですが、社会学が「社会的適応における幾つかのバラバラな技術的諸問題」に分解してしまうという危険であります。p.94

現在の社会科学系の学問には、こんな状況が非常に多く見受けられるような…

しかし、全体として、歴史家は、勝者にしろ、敗者にしろ、何かを成し遂げた人間を問題にします。私はクリケット史の専門家ではありません。しかし、恐らく、クリケット史の頁を飾っているのは、百点を取った人々の名前で、零点の人々や失格した人々の名前ではありますまい。歴史上、「我々の注意を惹くのは、一つの国家を形作るような民族だけである」というヘーゲルの有名な言葉が、社会組織の一つの形態に独占的な価値を認め、嫌悪すべき国家崇拝の道を開いたと批判されたのは当然のことです。しかし、原則から見ますと、ヘーゲルが言おうとしていたことは正しいことで、歴史以前と歴史との区別を言い現しているものです。p.188

このあたりもずいぶんと現在の歴史学とは違う。現在の歴史学は声なき人々に接近しようと努力している。「零点の人々や失格した人々」もクリケットに関わった人間として検討する価値があるという方向に変っている。まあ、その代償に、非常に情報源の処理が難しくなって、専門的になっているのだが。