本郷恵子『中世人の経済感覚:「お買い物」からさぐる』

中世人の経済感覚 (NHKブックス)

中世人の経済感覚 (NHKブックス)

中世における銭の利用、銭で何を買ったかから、中世の社会的意識、心性に迫った本。「買い物」を通して、当時の価値意識をあぶり出す。1-2章が市の景観や銭の利用法など。3-8章が官位の購入をめぐる話。第9章は、吉田兼好の『徒然草』から銭や消費に関する意識を。10-12章では宗教的な寄進行為や宗教行為をめぐる消費について。『徒然草』などの文学作品を素材として、復元している。
 紹介されているエピソードは興味深いが、あえて言うなら、「奢侈」についての記述が弱いことが欠点か。第9章では、吉田兼好の価値意識を中心に、贅沢品についても言及されているが、基本的には「奢侈」に批判的な言動が中心に紹介されている。現在まで著作を残すような人物は、基本的には気取り屋で、世間の風潮を斜に見る傾向が強いからかもしれないが。考古学的な調査で中国製の磁器がたくさん出てくるように調度品、あるいは服飾品、本書でも紹介されているような珍獣などを、人びとが競って求めたわけで、そこについての言及はもう少しほしかった。象牙の笏のエピソードは興味深かったが。


 官位をめぐる話題に、かなりの紙幅が割かれているが、やはりこの官位と言うのが非常に大事だったのだろう。以前、講演で阿蘇家が大枚をはたいて官位の獲得を図ったと言う話を聞いたことがある(http://d.hatena.ne.jp/taron/20061008#p2)が、中世の人々にとって官位がどのような機能を持っていたのか。現代人には、いまいち計り知れないところがある。とても大事だったことには違いないのだろう。一定レベル以上の社会階層にいる人物が、元服し、社会の構成員として認知されるには、かなり高いハードルがあり、人によっては日陰の身でかなり苦労したエピソードや個人を同定するうえでの官位の重要性についての指摘が興味深い。
 また、足利義教の将軍就任時のエピソードが紹介されている。出家していたのを還俗して将軍にになったのだが、剃髪の状態から髷が結えるようになり、冠や烏帽子を被れるようになるまで、いろいろと政務に支障があったそうで、まさにふさわしい外見が重要であった。あるいは烏帽子の重要性が興味深い。『一遍聖絵』で裸体で作業をしていても烏帽子だけはしっかり被っているという指摘や、『殴り合う貴族たち』(ISBN:404409201X)でも烏帽子を奪われるのが非常に恥辱だったという話とつながって興味深い。やはり昔の人の心性はよく分からん。
 律令制が解体していく平安後期以降、朝廷の儀礼といった国事の費用は、官位の売却によって賄われていたこと。この売官についての経過については、かなりの紙幅が割かれている。朝廷の威信低下が、官位の価格を低下させていったこと。江戸末期には出入りの職人にも官位が売られるほど価値が低下していった状況。武家政権御家人に対する官位付与を制御しようとしたことなど。西洋では、フランスを中心にルネサンス王政あるいは絶対王政にとって、16-18世紀に売官が国家の収入に役割を果たしていたという歴史を連想させる。ただ、日本の成功(じょうごう:売官のこと)が経済的な実利を伴わなかったのに対し、近世ヨーロッパの売官が官職に俸給などの経済的実利を伴っていたことが大きな違いと言える。官職が重要だった社会としては中国も挙げられるが、そちらではどうだったのだろうか。あるいは、他の社会では。


 他の興味深いエピソードとしては、9章で紹介される『徒然草』の大福長者の人生哲学の無限に富を増やしていく志向がなんか現代的だなあとか、第10章の仏像の胎内から発見された無名の一地方豪族の宗教活動の日記に見る、相当な費用を宗教活動に当てている状況など。特に後者は、歴史に残らないレベルの豪族が宗教活動にかなりの費用をつぎ込んでいることが興味深い。このレベルの土豪でも相当の富を維持していたこと。ここでは心の平安についての志向しか述べられていないが、社会的な地位の維持にこのような活動がどのような意義を持ったのかなど、色々と考えが膨らむ。
 また、「おわりに」で紹介される、市を通すことで「自由を獲得する」機能が興味深い。「市」や「銭」には、現代でも名残があるが、何らかのマジカルなものが付随しているようだ。

 人々がもとめているのはかならずしも物ではなく(官位などは、物ですらない)、むしろそれに付随する物語であった。奇跡譚がつくことによって、小さな玉は仏舎利へと昇格し、往生譚の再現を念じて多くの富が投じられる。逆に”市”は、「物語がない」という物語を創出する場、物語を操作する場として機能したとも考えられよう。それだけ背景となる事情から自由な”商品”が存在しにくかったということである。p.271