戸部良一『日本陸軍と中国:「支那通」にみる夢と蹉跌』

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

 日本陸軍の情報士官達のうち、中国に深くコミットした「支那通」と呼ばれる一群の士官、特にその一人の佐々木到一にスポットを当て、中国の近代の展開とそれに対しどのように相対したのかをまとめている。
 明治の対中国情報収集の開始期、大正期の軍閥に密着した旧支那通、中国の近代化と国民党に好意を示すが最終的には敵対関係に陥っていく新支那通。西洋列強から東アジアをまもる「東亜保全」のロマンティシズムから中国の統一に期待を抱くが、反帝国主義の行動の対象に日本も含まれる状況で、国民党に反感を募らせていく。研究会の報告で江藤淳が「佐々木が中国に裏切られたというのは、中国が「他者」であるという認識に欠けていたからだ」と指摘したそうだが、まさにそうだし、そういう過ちは戦後の左翼知識人もおかしているな。ついでに言えば、ネオコンの中東「民主化」もそんな感じ。
 しかし、日中関係の悪化には、日本側の謀略や帝国主義的な立場への中国側の反発ももちろんあるのだが、中国の民間人虐殺や大使館の襲撃などの中国側の責任もあるよな。


 以下、メモ:

どちらが利用されていたのか
 陸軍支那通の行動を理解するためには、以上のような日本軍の存在を頭のなかに入れておく必要がある。それと並んで、彼らの活動の舞台を設定していた重要な要素が、中国の軍閥割拠という状況であったことは言うまでもないだろう。陸軍支那通に関する先駆的研究のなかで、北岡伸一氏は次のように指摘している。中国に勤務する支那通たちはそれぞれ現地の有力者と親交を結び、その要求や利益を本国の陸軍中央に訴えるエージェントと化した。実際、支那通たちが現地の有力者を利用したというよりも、むしろ中国に割拠する軍閥や有力政治家が支那通たちを利用したのだ、と。
 たしかに排袁政策の実施過程で、北京の坂西とそれ以外の各地の支那通たちとの間には、現状認識と対処策をめぐって深い亀裂が生じた。それは、個々の支那通の個性に由来するというよりも、それぞれが駐在する地域の特性、より正確に言えば、その地域の実力者の利害に由来するところが大きかった。したがって、そうした傾向は駐在武官にも当てはまるとはいえ、軍閥の顧問の場合にはよりいっそう顕著であった。p.67

 ダメじゃん…

 陸軍の将校団組織、偕行社には『偕行社記事』という機関誌があるが、そこに天歩生なるペンネームで「民族性より見たる支那漫談」というエッセイが満州事変後、数回にわたって連載されている。そのなかに次のような観察がある。


支那は国家にあらず、支那は一つの社会である。少なくとも近代組織の法治国と見做すべき国ではない。


支那人は人間に非ず豚である。彼等は仁義なく忠孝なく義務なく犠牲なく、況や人倫の道、五常の徳の如きは。四百余州を探しても薬にしたくてもあるものではない。


支那人は遠慮を知らぬ増長民族で、相手弱しと見れば何処までもつけ上がるか分からない民族である。……この増長限りなき漢民族に親善を求めようと考えた事は明らかに私達の違算であった。


彼等は国家観念を欠き不良なる官吏と軍隊から苛まれて却って政府の存在を喜ばない。重税と苛政の前に常に政権を厭忌し、また個人としては極端なる利己的で人の為奉仕するの念は罕である。……近年愛国運動に名を借りて排日排外が盛大であるが、官吏は之を利用して金を儲け学生は之を利用して学業を休み、男女の会合を図り、商人は之を利用して自己の繁栄を図ると言うのが実相である。


正当化のロジック
 天歩生なるペンネームを持つ者が軍人であるかどうか、さだかではない。だが、こうした観察が陸軍将校一般の中国観に影響を与え、またそれを反映していることは間違いないだろう。しかも、中国が名目的であるにせよ国民党による統一を実現し近代国家としての第一歩を踏み出したときに、中国は国家にあらずとする中国非国論が蒸し返され、反近代的な中国イメージが描かれたことは注目に値する。こうしたイメージは満州事変を合理化し正当化することに役立った。しかし、中国に生起しつつある様々の変化についての理解を妨げたことも間違いなかった。
 実は佐々木到一も漢民族の変わり得ぬ政治文化を強調するようになっていた。「漢民族は古来から政治の羈絆から遊離した放逸の民」である(「対満州国政治指導に関する所感」)といった指摘がそうである。立憲法治国家の政治原理を満州国のような未完成国家にそのまま性急に適用してはならない、とも彼は警告した。未完成国家の現状では、法治主義ではなく、状況に応じた権力による強制と利益誘導が統治の要とされた。
 かつて佐々木は中国革命の目標を立憲主義法治主義に基づく国家統一に求めたはずである。ところが、ここでは法治主義立憲主義の適用が、少なくとも当面は断念されている。それが漢民族の変わり得ぬ「民族性」から必然的に導かれる結論だったとすれば、法治主義立憲主義の適用不能は、単に満州国だけでなく、中国全体にも及ぶことを意味した。p.176-8

 なんかこの手の言説って、未だにほとんど変わらず流通しているような。なんか70年ほど前のスローガンがそのままリバイバルしているってのも、本当に萎えるものが。

 こうしてみると、支那通は中国の軍事力をまったく軽視していたわけではないようである。軍閥軍の軍事力は軽蔑していただろうが、中央軍があなどりがたいことは十分承知していたように思われる。したがって、支那事変勃発当初に彼らがおかした重大なミスは、中国の抗戦力軽視ではなくて、その抗戦意志の軽視であったと言えよう。つまり、日本がその強硬な意思を出兵というかたちで示すならば、冀察政権はもちろん南京の国民政府も日本の要求を即座に受け入れるだろう、と判断したことが致命的な誤りであった。p.200

 結局は、日中戦争を通じて帝国主義からの脱却に成功しているのだから余計にな。

 ところで陸軍支那通たちの多くには、そうした情報将校としての任務意識だけが働いていたのではない。彼らにはしばしば、西洋列強の圧迫から東洋を守るという素朴な「東亜保全」のロマンティシズムが作用していた。陸軍支那通が単なる情報将校というだけにはとどまらない性格を有しているのは、大半がこのロマンティシズムに由来している。
 彼らの論理にしたがえば、東亜を保全するためには、隣国の中国と提携すべきだったが、そのためにはまず、中国がその必要性に目覚めねばならなかった。こうして、中国の覚醒をうながすことが、支那通たちの目標に加えられた。このような観点から、彼らの一部は辛亥革命を歓迎したのであり、国民党による国民革命への期待を表明する佐々木のような新支那通も現れたのである。
 しかしながら、情報将校の任務と東亜保全・日中提携のような理想が両立するとは限らなかった。支那通たちはときとして、理想よりも、権益拡張の国策遂行を優先した。一方、目覚めた中国は必ずしも支那通たちの期待に応えてくれなかった。その失望から、中国への強硬論を唱えるにいたる新支那通も少なくなかった。その典型が佐々木到一であった。p.220-1

 相手との距離というのは難しいものだな。まあ、「東亜保全」という観念自体が帝国主義だと思うけど。