根岸茂夫『大名行列を解剖する:江戸の人材派遣』

大名行列を解剖する―江戸の人材派遣 (歴史文化ライブラリー)

大名行列を解剖する―江戸の人材派遣 (歴史文化ライブラリー)

 副題の「江戸の人材派遣」と言うよりは、「行列と奉公人から見た武家政権」とでもした方がなんぼか実態に合っているような。武家の行列に表現されている江戸の武家社会の構造、その中で奉公人、特に渡りの奉公人がどのような位置を占めたかを描いている。「人材派遣」というには、派遣された側が主導権を握りすぎているし。ついでに言えば、参勤交代の話だと思っていたが、むしろ江戸の都市内の話と言った方がいい感じだな。
 プロローグから第一部にかけては、武家の行列とその構造の解説。行列は「武威」を表現するための手段であること。基本的には実戦での陣形「備(そなえ)」とその行軍形態「押(おし)」を出仕のために簡略化した形態だという。しかし、こうして見ると、戦国時代の戦争のやり方って本当に分からないな。行列の基本は一人の武士とその供連ということになるが、ということは個別の少人数の単位がぶつかり合うということなのだろうか。ずいぶん無秩序なものになりそうな気がするが。
 ともあれ、戦国時代には中間や小者と言った武士未満の奉公人がかなりの数を占めていること。これが江戸時代にも引き継がれる。おそらく戦国期もそうだったのだろうが、かなり早い時期から渡りの奉公人を雇って、軍役を果たしていたこと。特に零細の武家では、それら臨時雇いの奉公人に依存したこと。また、そのような奉公人を斡旋する業者が存在し、それが「人宿」へと発展していく。
 武家の「武威」は長い太平の時代に、形骸化していく。奉公人たちは横の連帯を強め、雇い主の武家や斡旋した人宿の統制を受け付けなくなっていく。中間部屋などの「部屋頭」が、影響力を強め、現場を掌握するとともに、部屋の寄子から中間搾取を行い富を積み上げていく状況が明らかにされる。また、欠落ち(逃亡)や「武威」の象徴である槍を投げるなど「がさつ」な行為を抑制できなくなる。「がさつ」な行為をやめるように何度も触れが出される状況や奉公人の統制を人宿に丸投げする状況に、武家の形骸化が指摘される。まあ、でも、スパスパ切りまくるよりも、こちらの方がいいような気はするが。
 これらの奉公人と武家の行列は、幕末の変動のなかで衰退していく。幕府の権威の低下のなかで、参勤交代や出仕時の供揃えの簡略が進む。軍事的にも、西洋式の歩兵隊が組織され、奉公人たちは歩兵部隊に雇われ、組織される。彼等は、幕府の歩兵隊として新政府軍を苦しめる存在になった言う。
 奉公人から見た江戸時代というのも興味深いものだった。主家を無視して傍若無人に振る舞い、ケンカを吹っかけたりする奉公人たち。「武威」の形骸化。フォーカスを変えると、また別の様相が見えてくる。


以下、メモ:

戦闘の形態が行列を作る
 それは、当時の戦闘法が、まず敵に向かうと(1)の鉄炮、続いて弓が加わって攻撃を開始し、さらに近づくと鉄炮・弓が左右に開いて、長柄隊が一斉に鎗で叩いたり突いたりするのが前哨戦だったからである。本格的な戦闘は、(3)の侍たちが馬から下りて本陣の前に展開し、徒歩で家来を率いて敵陣に突入して、一騎打ちで敵の首級を取り手柄を立てる。それが武家の恩賞・加増や昇進につながるというのが、戦国以来の武家社会の建前だったのである。(e)徒組や(f)小十人組は本陣を護る存在であり、騎馬の家臣は家来たちの助けを借りて手柄を立てなければならなかった。そのために家臣は多くの家来を必要とし、知行に相当する家臣や武器をそろえる必要があった。啓蒙書では、戦国時代に集団戦になったとか、鉄炮足軽が戦場の花形になったとか書かれることが多い。しかし、それで大勢が決まることはあったかもしれないが、本格的な戦闘は一人前の侍が鎗をふるって敵を討ち取り、手柄を立てて侍としての力を誇示して出世するという建前の軍隊だったのである。鉄炮だけで戦いが決まれば、近代的軍隊のように武家は無用なのである。p.26-7

 戦国の戦争。相当無秩序な戦場だったんじゃ… だからこそ島津が釣り野伏って作戦で勝てたのかもしれないが。

 おそらく戦国から近世初期にかけて、裸一貫で出世し加増を重ねて高禄の侍や大名になった武家たちは、このような形で次第に家臣団を形成していったと思われる。その意味で家臣団は本来軍事組織として形成されたのである。もちろん、一族郎党や、かつての仲間・新参の牢人・高禄の侍などがさまざまな形で入り込み、実際にはそのような層が備えを持って別動隊になるなど、複雑になっていたであろう。一方、主人の脇にいる側近層(側方)が主人の世話をするとともに、家政などを担当するようになり、次第に領内の行政などにも携わるようになって役人層(役方)が形成されていった。広島藩浅野氏の家臣団は、主君の警固や世話にあたる小姓組から役人が発生しており、会津藩松平家では、役人層を「近習」、軍事組織に属したものたちを「外様」と称していたが、このような家臣団形成を物語る証左ともいえる。大名行列などでも、役人層は乗物の周辺にいる程度で、他の家来のほとんどは軍事・警固にあたるものたち(番方)だったのである。p.32-3

 メモ。

 しかし、渡り者たちは、いつも我が物顔に市中を横柄にのし歩いたわけでもない。寛政四年十一月、小普請奉行石野八大夫範尭(1100石)が登城の途中、霞ヶ関でサツマイモを積んだ馬の行列と出会った。馬を退けようとした石野の徒士や手廻りと馬子とが口論を始め、馬子に殴りかかると、後に続いてサツマイモを積んでいた七〇人の馬子が一斉に反撃し、石野の家来や手廻りはすべて叩きのめされてしまった。しかたなく石野は乗物を捨て馬に乗って侍一人を連れてすごすごと登城していった。馬子たちは主人がいなくなったから屋敷に行こうといって、七〇人がサツマイモを積んだ馬を引いて石野の屋敷に押し掛けたという。この馬子たちは、武蔵入間郡多摩郡辺りの武蔵野台地の農村から来た百姓たちであろう。このころからサツマイモが江戸で喜ばれるようになり、商品作物として盛んに生産されていく時期である。サツマイモは、教科書には救荒作物つまり飢饉対策の食物として登場するが、江戸の人々にとってはデザートとしてもてはやされていた。また余計な話をしたが、馬子が押し寄せた結末は『よしの草紙』には見えない。ただ寛政改革のさなかでさえ、武家を震えさせる粗暴で放埓な渡り者たちも、百姓たちの力には及ばなかったのである。p.169-171

 まあ、村ってのは軍事組織でもあるからな。まして、馬子ってのは気が荒いものではないのだろうか。あと、サツマイモがどのように受容されたという話も興味深い。平素どう消費されたか。確かに甘みがあるし、砂糖がそれなりに貴重だった時代には甘味として好まれたのかもな。