金田章裕『古地図からみた古代日本:土地制度と景観』

古地図からみた古代日本―土地制度と景観 (中公新書)

古地図からみた古代日本―土地制度と景観 (中公新書)

 正倉院を中心に残されてきた古代の大縮尺絵図、荘園図の検討を通じて当時の景観や地図製作の背景となった制度などを読み取っている。濃い内容を新書一冊に圧縮しているせいか、微妙にわかりにくい感じが。特に地図の写真が小さく、粗いという限界はいかんともしがたいというか。しかしまあ、現在残っている地図から、実際の場所を比定して、そこに描かれた内容を読み解くというのが、外野から見ると、正直魔法のようだ。
 第一章は全体の概要。制作者や材料、形式など。第二章は現在に残る絵図から見られる土地管理制度。国家管理の課税地である田と無税地である畠の区別。墾田の資財化による区別の必要が条里プランを生み、管理システムを精緻化させたこと。第三章は現在残る地図類の前提となる開墾活動について。東大寺の墾田の占定や地方豪族や中央の貴族、私人の開墾活動。
 後半は地図から読み取ることができる景観。用排水路や家屋敷、荘園の管理施設、寺院や神社。色彩から見た田と畠の区別。山や池、川などの自然景観。また、山の位置の検討や描かれている景観から、実際の地表の配置では不連続だったり、曲がっていたりする条里プランを、地図上では一貫した斉一なプランとして表現していると指摘している。
 これだけのことが読み取れるのかと驚嘆すると同時に、一方でやはり空白は大きいなあとも思う。例えば、耕地は一貫して同じ場所が耕作されていたのか、輪作や一時的な放棄はなかったのか。実際の定住はどうだったのか。このあたりは考古学や文献からの検証と突き合わせれば、埋まるのだろうか。


 以下、メモ:

 ところが、墾田が存在するようになると、事はそれ程容易ではない。行政手続き上の事務量、確認のための作業量は、墾田の増大と共に激増し、おそらくは所在地の誤認に由来する混乱もまた急増したとみられる。このような状況に対応して導入されたのが、面積一町の各方格に番号を付ける方法、つまり条里呼称法の導入である。p.39-40

 私有の田が出現したことから、条里プランというものが作られたという話。条里制が班田収受制よりも大分後に形成されたとはよく聞く話だ。8世紀中期以降に使われるようになったという。

 現地の地形条件からすれば、このような「大溝」は存在し得ない。この段階では天平宝字三年に存在した多くの寺田に「己荒」と記されており、段丘上の寺田の荒廃が進んだことが知られる。その理由は不明であるが、おそらく用水不足がかかわっており、とすれば天平宝字三年図の長い方の溝が十分に機能しなくなっていたことによるのであろう。p.82

 古代の耕地って、どの程度の安定性があったのだろうか。割と頻繁に使えなくなったりしていたように思える。

 桑原荘の荘所が、二二種の物品を所蔵していたことも記しておきたい。しかし、農具は意外に少なく、斧二、手斧二、鎌二、鍬二〇、鋤一〇、席(蓆)一〇などに過ぎず、最大長さ三丈に及ぶ樋を計十三も所蔵しているのが目立つ。樋のような施設用のものはともかく、鍬・鎌は作業者自身が持参したとしか考えられない。別に田坏二〇〇と二五升の大きな釜二が記されているから、飲食用の食器・釜の数は相当数にのぼる。会食・宴会の可能な状況ではある。p.103-4

 この時代の荘園が持っていた資材の話。農作業が終わったら、振舞いをやっていたのだろうな。

 山田郡田図に描かれた弘福寺領は、和銅二年(七〇九)の弘福寺水陸田目録に「讃岐国山田郡田弐拾町」と記されたものに由来すると考えられている。弘福寺は最も古い官寺の一つであり、また山田郡の寺田も早くに成立したものであったが、それは輸租田であったことになる。
 一方、弘福寺領の畠には租稲が書き上げられていなかった。つまり畠は不輸租であり、荘所の敷地をはじめ畠成田とか今畠墾田までも畠の中に計上されていたことに留意したい。畠の語は必ずしも、土地利用としての畠を意味するものではないことになる。畠成田は畠になった田、今畠墾田は、墾田ではあるが今は畠である耕地の意味であろうか。
 律令国家が本来耕地のすべてを田として把握・表現し、畠という用語を令では使用していなかったことを想起したい。園・宅地は令に規定されており、不輸租地であった。荘所の敷地などはまさしく宅地に類する。山田郡田図では、これも含めて畠と表現しているのである。従って畠とは私有の不輸租地を意味する表現であったことになる。土地利用上の畠であるか否か、つまり耕作しているか否かは別の問題であったとみるべきことになる。とすれば、逆に田の方もまた、耕地であれば土地利用は水田とは限らず、実質的な畠も含んでいたとみてよい。
 先にふれた弘福寺領内における寺領の誤った収公と班給は、このような状況をまさしく反映した事件であった。寺領の一部を誤認して収公し、それが判明して返却した「田」は、山田郡田図では寺田が一町未満であった坊の部分にのみ存在した。つまり、寺田として記録されている面積分以上の耕地を収公し、口分田として班給してしまったと考えられるのである。田と畠を、現地では識別することができなかったことを示す好例であろう。さらにうがって考えれば、田に土地利用としての畠が含まれていたであろうことはもとより、畠に水田が含まれていた可能性さえあることになる。
 弘福寺はいずれにしても、これらの田畠を賃租に出して、そこから直すなわち地子を徴収するのが、寺田経営の目的であった。田については租を国に納入する必要があったが、畠はその必要がなかったことも判明する。山田郡田図に記載された直米額を一町あたりに換算すると、田は四石五斗から十五石とばらつきが多いものの、五-六石程度が多いのに対し、畠は一石二斗から五石(畠成田・今畠墾田)で二石前後が多い。要するに畠の小作料は田の半分程度であった。田については、これに租稲が加わるから、耕作者にとっては畠の三倍程度の負担となる。p.128-9

 うーん、畠の方には、やはり水田は少なかったんじゃなかろうか。水路なんかのインフラがどうなっていたかが解明されないと、そのあたりは何とも言えない気がする。畠も畑作の収穫量に占める小作料は田と同程度で、それを稲に換算すると三分の一程度の量になると理解することもできるし。