齋藤努『金属が語る日本史:銭貨・日本刀・鉄炮』

金属が語る日本史―銭貨・日本刀・鉄炮 (歴史文化ライブラリー)

金属が語る日本史―銭貨・日本刀・鉄炮 (歴史文化ライブラリー)

 文化財科学のケーススタディを紹介する本。「日本史」というのは、大きく出すぎだな。人文学的な研究手法と理系の分析手法を組み合わせて、新たな知見を生み出すのが「文化財科学」で、単に分析してみたでは、文化財科学にならないと言うのは興味深い指摘。内容は副題にあるとおりで、大まかに三部に分かれている。皇朝十二銭の組成や同位体分析、日本刀の作成過程の観察、火縄銃の素材である軟鉄がどのように作られていたのかの再現実験が主な内容。


 最初は皇朝十二銭の分析。鉛同位体比を測定し、考古学的に発掘された各地の銅山関連遺物と比較し、山口県の長登銅山や蔵目喜銅山の可能性が高いこと。秩父からの銅の献上とは、基本的に関係ないとの以前からの指摘を、裏付けるものとなっている。ただ、結局は鉛の分析なんだよな。それが「銅」の産地の推定に使える根拠がいまいちわからない。
 また、電子スキャニングによる成分の分析から、ばらつきはあるが、時代が下るに従い鉛の含有量が上がっていくことが指摘される。これらは三段階に分けられること。この原因として、文献と突き合わせて、銅の供給量が減少していったことが原因であることを指摘する。アンチモンと錫が混同されていたらしいことや錫の供給の減少の指摘も興味深い。平安時代以降、不純物の鉄と硫黄が減少し、精錬技術が向上したらしいという指摘も興味深い。
 発掘調査によって発見された鉱石などと製品の比較から、朝鮮半島→中国大陸→国産材料と青銅製品の原料供給地が変わってきたことや日本産の原料の利用が七世紀中葉にさかのぼるという。


 第二部は日本刀の製作過程をサーモグラフィーによる温度測定や、製造されたものからサンプルを切り出して走査型電子顕微鏡での観察することによって、刀工の経験知を科学的に裏づけ、どのような仕組みで行なわれているのかを明らかにしようとしている。
 本書では、素材の成分を調整し、日本刀に適切な炭素含有量に調整する「卸し鉄」の過程、折り返し鍛錬、焼き入れの観察が紹介されている。
 最初の卸し鉄が興味深い。軟鉄へ炭素を足す加工と銑鉄から炭素を抜く加工が、ほとんど同じような設備で、同じようなやり方で行なわれているのが興味深い。浸炭では木炭と反応させ、ふいごから送り込む酸素と反応しないようすばやく炉底まで落とす。逆に脱炭の場合には少しづつとかし、ふいごからの風で炭素を燃焼させるという微妙な操作が行なわれているそうだ。
 折り返し鍛錬では、熱の観察から仮止めと鍛着で温度や作業時間に差がある状況や、断面から繰り返し鍛えることによって接合面の不純物が細かくされ、接合面が目立たなくなっていく状況が示される。
 焼き入れの研究も興味深い。焼き入れの際には、焼刃土を刃には薄く、地部には厚く塗るが、これが断熱材の作用を果たし、地部にまで焼き入れが及ばないようにしていること。また、刃紋には「沸(にえ)」と「匂(におい)」という二種類があるが、温度を変え、結晶の形成を操作することによって、作られていること。刀工は、刀身の光り方などから、確実に認識して、作っていることが明らかにされる。


 第三部は火縄銃について。火縄銃の製造方法は、材料の製作法、銃身の鍛造法ともに失われているそうだ。鉄砲は、粘りが必要なため、炭素が少ない軟鉄を使用していること。また、伝世品の表面を観察することによって、鉄板を円筒に丸めただけの「荒巻」と、その上に細い鉄板を斜めに巻きつけた「巻張」の二種類があり、後者が高価だったこと。
 また、刀にはチタンを含むスラグが含まれているが、鉄砲では含まれていなくて、材料の調達法が違うこと。この、軟鉄を製造する「大鍛冶」も、明治以降需要がなくなってしまったため、製造法が失われているが、文献や実験を通じて、どのように作られていたのかを再現している。アーチ型に銑を積んで、上に木炭を重ね、加熱し、脱炭を行なう。ある程度は、どのようにやっていたのかが明らかになっている。失われた技術の復元というのがおもしろい。


 以下、メモ:

 日本で製作された青銅製品の分析値をこれらのグループ領域と重ねあわせると、以下のような変遷がみえてくる。
 弥生時代の国産青銅器が出現した時期の原料はD領域に入るものが多い。その後、弥生時代の後期にかけてA領域の原料に移行していく。つまり、まず朝鮮半島から原料が輸入され、しだいに中国華北産原料へと変わっていったことになる。これは、紀元前一〇八年に中国の前漢朝鮮半島楽浪郡を設置したことや、そこを経由して前漢の文物が日本に入ってくるようになった歴史的な事情が背景にあるのだろう。p.30-1

 青銅製品の原料供給地の変遷。海を越えた金属原料の貿易が行なわれていたことや、その広がりなどが興味深い。

 皇朝十二銭について、金属部分の成分組成を調べた例としては、明治時代の甲賀宜政氏によるものがある(甲賀 一九一一、一九一九)。これは表面の錆を除いたのちに銭貨を細切し、そのうちの一グラムをとって硝酸で溶かして湿式化学分析を行なったものだ。ただし、八種類のみで、分析点数も少ない。
 また中世の渡来銭や模鋳銭といった、大量に出土している銭貨では、その一部を切り出し、酸で溶かして分析する方法も行なわれている。しかし、分析資料を切り出した跡を樹脂などで修復しているとはいっても、これは資料をかなり損ねることになるので、皇朝十二銭のような貴重な資料には適用できない。p.40

 皇朝十二銭を切り出すってのは、すげーな… いくら明治時代とはいえ。

 延喜通宝(11)と乾元通宝(12)という皇朝十二銭末期の銭貨、特に後者については、「鉛銭になってしまう」と説明されていることが多かった。しかし、私たちの分析の結果では、すべてが鉛銭になるわけではなく、これら以前の銭貨と同様な成分組成のものも含まれており、ばらつきが大きい。おそらく、新たに用意した原料素材を使用したものと、旧銭などを鋳直して素材として再利用したものがあるのだろう。p.52

 なんか材料の確保も大変だったんだな。同じ銭でも、これだけ品位がばらつくと、流通上問題になりそうだが。古代では、そのあたりの感覚が違ったのかね。

 さて、歴史の流れに話を戻すと、寛平大宝(10)以降には大規模な造営がなくなり(鬼頭 一九八四)、銭貨の質を維持するための要件が失われてしまった。延喜通宝(11)(延喜七年〈九〇七〉)から乾元大宝(12)(天徳二年〈九五八〉)の発行までの間に五〇年もの開きがあるという点も、銭貨発行の意義やその需要が失われていったことをうかがわせる。p.54

 政府の支払いに重要だったんだな。

 ちなみに、昭和の後期まで、銅に発生する錆である緑青には毒があると考えられていた。これは、なぜか日本だけで信じられていた迷信である。しかし、実際には、緑青に特別な毒性はないことが日本伸銅協会と(社)日本銅センター、そして国によって行なわれた動物実験で確認され、昭和五十九年(一九八四)に厚生省(現・厚生労働省)から結果が発表されている。そして、そのような迷信が広まったのは、日本古代の青銅製品の中に含まれていたヒ素のせいではないかとされている。いうまでもなく、ヒ素は強い毒性をもった金属だ。p.57-8

 へえ、緑青が毒であるってのは、日本だけだったのか。

 つまり、刃側と棟側とで体積に違いが生まれ、その力の差によって刀身が反るわけである。ここで注意すべき点は、「棟側が縮み刃側を引っ張る力が働いて反りができるのではない」ということだ。もしそういう力が働いているとすれば、刃が欠けたりした時、その亀裂は両側から引っ張られてたちまち大きくなってしまうだろう。実際の日本刀は、刃に多少の欠けが起きても、それ以上亀裂は進んでいかない。これは、刃側が膨張して外側に押しのけるような力が働くことによって反りが生じているからである。刃部の力は、欠けの部分を引っ張る方向ではなく、圧縮する方向に働いているということになる。p.126-7

 へえ、焼き入れによって「マルテンサイト」という組織が形成され、膨張するので、刃が反るのだそうな。実際、焼き入れ前は、逆に反っているのか。

 ただし、この洋鉄(S50C)は、和鉄と同じ条件で焼き入れしても、和鉄のような刃文にはならず、厚く塗った地部の焼刃土の下までマルテンサイトができ、全体として広い幅に焼きが入ってしまった。また、油分をとるために灰汁を塗ってから水洗いし、自然乾燥させると、和鉄の場合は黒光りする状態になるだけなのに対して、洋鉄は全体に赤錆がうっすらと浮き出してしまった。
「和鉄と洋鉄は全く異なる材料であり、洋鉄は日本刀の原料に適していない」とは、これまでにも法華氏を含めさまざまな刀匠から指摘されてきたことだ。私たちはこれまで、それは美術刀剣としてみたときの微妙な外見上の違いのことで、性質には大差がないのだろうと考えていた。しかし、これらの経験からみると、確かに和鉄と洋鉄とでは性質に違いがあるのだと認めざるをえない。なお、このような違いがなぜ生まれるのかは、いまのところよくわかっていない。p.128-9

 へえ、そんなに違うんだ。

 これらの例からわかることは、鉄炮鍛冶と刀匠とは材料の調達法や製作法に違いがあり、本業以外の製品を作る際も、わざわざ素材を使い分けたりはしていなかったということだ。p.150

 これもおもしろい話だな。