熊本大学附属図書館貴重資料店講演会「物語史と絵」を聞きに行く

 本日は、熊大の学園祭と同時開催の貴重資料展と講演会に出撃。早く出て、工学部のほうのイベントも見てくるつもりだったのだが、出遅れて駆け足になってしまった。夕方から雨が降るような予報が出ていたので、早々に帰宅。


 今年の展示のテーマは、物語がどのような場で読まれ、そしてその文化が再生産されたか、読者サイドからの物語の歴史を描いている。そして、このような物語の享受に「絵」が重要な役割を果たし、絵から更なる表現や豊かな言語表現の契機になっているという。


「物語史」は空白が多い。これは、日本文学の主流が和歌であり歌学書や歌集は尊重されたが、物語はそれほど重要視されず散逸したものが多いという。例外は、歌学の文献として重要視された源氏物語伊勢物語で、これらは1200年ごろに古典の地位を確立し、本文校訂や注釈を付されたテキストが残っている。逆に、物語作品は古い写本が残っていない。講演した森先生の恩師の「伊勢物語の室町後期の写本が出ても誰も驚かないが、蜻蛉日記の江戸時代初期の写本が出てきたら大変だ」という言葉が紹介されたが、そのくらい古い写本が残っていないらしい。
 勅撰和歌集に収録されない物語内の和歌を集めた「風葉和歌集」(1269年編纂)には198編の物語作品から採録された歌が集められている。そのうち、現在まで残っている物語は22編。ほとんどの物語が、歴史の流れのなかで散逸してしまっている。残っているもののうちには、欠落しているものも多い。また、写本の残存状況や改作によって、文献学的な本文の再構成は、物語に関しては有効ではないという。


 これらの物語は当初から絵との密接な関係を持っていた。源氏物語の「東屋」巻のように高貴な人が絵を楽しみつつ、使用人が物語を音読する楽しみ方。
 あるいは、物語に新たな表現を付け加える営為。
 大和物語147段に見えるように、悲恋の物語を絵巻に仕立て、それをもとに登場人物になりきって歌を詠んだ記述のように、物語の続きや場面に付け加える。
 住吉物語は大斎院のサロンで成立したとされるが、その成立した大斎院の御所には住吉物語の絵画が複数存在し、大中臣能宣といった歌人に依頼して物語の場面に絵をつけてもらうなど、絵を媒介として、新たな表現活動が行なわれたことが紹介されている。


 源氏物語などの古典化した物語は、学術的な本文研究や注釈がつけられ、かなり原型を保ったテキストが伝来している。一方で、古典化しなかった物語については、中世を通じて改作が行なわれている。住吉物語とりかえばや物語、いはや、狭衣物語などで改作が行なわれ、大半がその改作されたほうの作品のみ伝来している。物語の歴史は、そのような時代に合わせた改作の歴史であった。
 また書き換えられる作品は、「継子いじめ」をテーマとした作品が多い。基本的な骨格を残しつつ、ディテールを時代に合わせて改変されている。これは、少女が、親離れをし、大人になるために、想像の世界の中で継子いじめを体験する必要があるという、実用的な要請があったためではないかとのこと。また、このため、絵本・絵巻の形式で読まれることが多く、そのような形で大量に伝来している。


 読者によって選ばれ、読み、書写改変が行なわれ、選ばれなかったものが消えていったのが物語の歴史であった。このあたりは、最近行なわれるようになった読者の歴史といった方向からの研究に棹差す話であるなと思った。そして、著作権問題につながるが、著作人格権といったものすら存在しない、自由に受け取られ、多くの人が改変していった創造空間といったものの重要性を、「文化の再生産」のなかで重視していくべきではないかといった問題意識ともリンクするなと思った。


 あと、質問からの流れで、900年代に行なわれた、新調した屏風の絵にちなんだ歌を詠み、屏風に書き込む屏風歌というのも興味深い。恋愛物語のようになっている屏風もあり、それが物語の原型の一つになったのではないかという。