浜井和史『海外戦没者の戦後史:遺骨帰還と慰霊』

 南洋を中心に、海外で戦没し、放置された遺骨の帰還をめぐっての、さまざまな動き。現在も残されている遺骨、その収容が、風化が進んでいなかった1950年代になぜ進められなかったかを、明らかにする。
 最初は、日清戦争以後、海外での戦没者が国内に還送されるようになった経緯。当初は、戦闘地域近くにまとめて仮埋葬される形態で、このまま現地に墓地が建設される方向に発展する可能性もあったが、三国干渉を受け、戦場が敵地に変わる可能性を前に「内地還送」の方針に転換する。その後、この方式が標準化するが、近代戦では遺体が回収できない事態が頻発する。ノモンハン事件、太平洋戦争後期の敗勢の中で戦死者を放置せざるを得ない状況。内地還送の方針は、変質を余儀なくされる。遺骨箱を英霊と読み替え、空の遺骨箱でも、帰還したとする「フィクション」の遺族への強要。しかし、敗戦によって、そのフィクションを強要する主体も消滅する。この中で、遺骨の「粗略な扱い」の問題、さらに帰還兵や遺骨を冷たく見る世相など。一応、優先的に遺体を還送する体制はとっていたようだが。
 続いては、戦後の遺体還送の動き。アメリカ側からの示唆によって、本格的に検討を始める。このとき、GHQのリヴィスト少佐の、世相が落ち着いたときに、戦没将兵の遺体をどう扱ったかが必ず問題になるって指摘はまさにって感じだな。一方で、遺体の回収に関してはアメリカ側の都合に振り回された感が強い。アメリカ側の戦死者遺体回収を優先して日本人の回収は後回しとか、グアムなどの軍事的要地では遺体は処理済であるとして回収団の派遣を拒む、「内地還送」の方針を覆し「印的発掘」「象徴遺骨」にとどめさせるなど。アメリカ管理以外の地域でも、フィリピン・ミャンバー・インドネシアニューギニアなどの各地で、遺体回収の交渉は、それぞれの国の警戒に直面する。戦後処理と国交回復の外交の進展にともなって、回収団が派遣される。しかし、ミャンマーニューギニアなど、現地住民の視線は冷たいものであったと。投入できるマンパワーや現地からの不信の中で、象徴遺骨にとどめざるを得なかった状況。
 最後は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の性格の問題。復員兵や1950年代の回収によって持ち帰られた遺骨のうち、引き取り手の見つからなかった遺骨が滞留し、それを納める施設が必要とされた。その納骨施設として千鳥ヶ淵戦没者墓苑が設置される。しかし、「象徴遺骨」の回収にとどめられたため「無名戦士の墓」的な全戦死者を代表させる性格と、誰の遺骨かわからない・引き取り手のない「無縁」の遺骨の収容施設としての性格の、二つが曖昧なまま残されたこと。靖国神社と墓苑の兼ね合いを気にする遺族会。フィリピンのカンルーバン収容所から送られてきた遺体を火葬した場所に築かれた「釜墓地」の荒廃や還送されてきた遺骨が遺族に届いてない現状。
 1950年代の遺骨回収は1958年に「一応終了」とされた。その後は、1960年代後半以降、継続的収集団が派遣されるようになる。また、DNA鑑定によって、新たに遺体が誰か確認できるようになってきた状況などが最後に紹介される。
 現在もかなりの遺骨が戦場に残ったままだが、これは諸事情によるもので日本政府が好んでこういう状況に甘んじたわけではないこと。一方で、積極的に、遺骨を遺族に引き渡すことができる努力を積み重ねてきたかといえば、そうとも言えない。そんな姿かな。そして、さまざまな主体の綱引きの結果、現状があると。