「路上の孤独寄り添う僧侶:東京・浅草で活動「ひとさじの会」」『朝日新聞』10/2/24

 若い坊さんが、街に出て、ホームレスの救援活動をしているという記事。
 寺や檀家制度などの、宗教のインフラが、社会の変動の中で機能を失いつつある現状で、こういうような活動は今後の展望のためにも必要なのかもしれないな。「修行」としても、有効だろう。もともと、宗教と慈善福祉活動は距離が近い。キリスト教会が貧者への施しを行い、仏教の寺院も「施行」という形で給食活動やその他の福祉事業を展開してきた。その歴史を考えると、こういう活動を積極的におこなうことは重要なのだろう。このような活動から、新しい時代に即した「新仏教」が出現するのかもしれない。
 しかし、今や「お寺」というのは逆に「仏教」にとって重荷になってきつつあるのかもしれないな。もともと集落や細かい居住単位のの祭祀や宗教需要にこたえる形で寺が建てられ、それをキャッチアップする形で寺檀制度が近世に整備されたと理解しているが、これは戦後の巨大な人口移動と村落共同体の解体で、機能を失いつつある。それに対して、仏教者がどのように対応していくか。今のところ「無縁社会」には新興宗教の方がうまく対応しているわけだが。


 以下、メモ:

 2人は路上生活者のことを「気ままなんだろうな」と思っていた。転機は、NPO関係者からの「身寄りのない人に合同墓を」という相談だった。08年1月、打ち合わせでホームレス経験者に会った。自立の道を歩む男性は、あらゆる縁が切れていたころのつらさを語った。「でも今は、死んだときに新しい仲間たちと一緒のところに行くと思えたら、残りの人生をもっとしっかり生きられる。路上の孤独とはそういうものなのか。2人は胸を突かれた。

 原さんが「お坊さん以上にお坊さんのように見える」というNPOの男性がいる。見返りを求めず、人のために人生をかける姿。いわゆる「上から目線」でも「下から目線」でもない。仏教で言う慈眼(慈悲のまなざし)を感じる。「本で勉強してきた立派な僧を目の当たりにしているようです。僕にとって理想像はそこにあります」



ひとさじの会のサイト


こちらも関係ありかな
ホームレスの約6割はうつ病!? “路上に引きこもる”人々が生活保護を嫌がる理由

路上にいれば、誰とも話さない限り、1人でずっと生きていける。炊き出しも無口で済む。生活保護を申請するには、まずワーカーと話をしなければならず、寮で集団生活を強いられる。そこで、生きていく自信のない人が少なくない。

 集団生活の経験者は、寮でいじめられたり、孤独感や疎外感を体験したりしている。コミュニケーションのうまくとれない人が路上には多い。結局、人とうまく話せないから、生活保護は受けたくないという話に結びつく。

 集団生活の経験者は、寮でいじめられたり、孤独感や疎外感を体験したりしている。コミュニケーションのうまくとれない人が路上には多い。結局、人とうまく話せないから、生活保護は受けたくないという話に結びつく。

 中でも、これまで一生懸命仕事してきた人ほど、自尊心があり、お上に「すみません」と下手に出て、頭を下げることへの抵抗感がある。頑張ってきて、やっとの思いで生活保護の申請に行った人たちも、「なんで頑張んなかったんだ」「まだ若いのに」と、一部のワーカーから言われてしまったりする。

 引きこもりというと、一昔前までは、裕福な家庭に多く、家やお金に余裕のあることが「引きこもり」を生むのではないかと言われてきたこともあった。しかし、ここ最近、お金のあるなしに関係なく、経済的に行き詰って、深刻な問題になりかねない事態も浮き彫りになりつつある。

 引きこもりの家族会が「年老い年金生活の親が死んだら、彼らはホームレスになるしかない」と危機感を訴えるのも、そのためだ。

 石原慎太郎東京都知事が、最近の浄化作戦等で「ホームレスの数は減った」などと嘘ぶいているが、世界の医療団によれば、「行政は日中にカウントしているから、数が減るのではないか」と指摘する。

 今も、障害という診断名には根拠のない悪いイメージが残るものの、障害は特性であり、誰でもなり得る症状でもある。こうした人たちが障害を気にせずに、安心して働けるような環境づくりを政策等で構築することが、ホームレスの数を減らしていくことにつながっていくのではないか。

 私も引きこもりなわけで、このあたりの話は他人事ではないというか。発達障害は社会に居場所がないしな。将来はどうなるんだろうな…
 エネルギーがあったらテロでも起こしたい気分だよ。家族に迷惑がかかるからやんないけどな。河合幹雄の『日本の殺人』でも家族を持たせることが再犯の予防になるって話が出ていたけど、人間関係のネットワークこそが、犯罪を抑制するというのが身にしみてよくわかる。