自動車産業・産業遺産関係記事メモ

『世界一であってこそ、日本一』 / 1952:4億5000万円の輸入工作機械購入を決断

 ネット上で読めるホンダ社史から。博打の打ち方がすごいな。月産100台クラスの時代から、金型鋳造を導入したり、高精度の工作機械を輸入したり。早い段階から、大量生産への布石を着々と打っていたと。部品の内製化を目指した動き。生産方法に関する関心。
 一方で、企業体質として、技術優先というか、「親切設計」が大きなお世話になっている事例なんかがあって、「チャレンジ精神」が行き過ぎているところもあったんだな。Honda1300の失敗あたりで、無理な空冷エンジンの導入を図って、車両全体のバランスを崩していたり。長円形ピストンエンジンでレースに苦戦したり。


 終戦から1960年あたりまでは、天才的職人である本田宗一郎を軸に話を進めることができるが、その後はトピック単位での記述になっている。会社が大きくなって、単一の視点からは語れなくなったということなのだろうな。Honda1300の失敗も、彼の限界と一人の天才的メカニックによる設計がこの時点で無理になっていたことを示しているだろうし。
 しかし、今後大きくなることが見込めるから、なんか無茶苦茶な働きかたしているけど。今の視点で見ると、かなりブラックな感じだなあ。
 技術者中心の視点だけど、販売網形成や宣伝、金策など、組織的な側面での副社長藤沢武夫の貢献も大きそう。


語り継ぎたいこと〜チャレンジの50年〜:写真やエピソードで語るHondaの50年史
 こちらがトップページ。N360による軽自動車市場への参入と消費者団体「日本自動車ユーザーユニオン」問題。結局、恐喝で訴えているが、実際のところ欠陥はあったのだろうか。同時代の他の会社の車両と比べてみないとなんとも言えないのではないか。
 あとは、ホンダの名を高めたCVCCエンジンなどの技術開発。汎用エンジン開発時の市場調査の姿、現地生産の姿なども興味深い。
 あと、販売チャンネルを自前で維持することの大切さ。

日産 | 運命を切り開いたクルマ: 富士号&桜号

日産 | 伝説のラリーカー復活:富士号&桜号
 ホンダが二輪レースで世界を目指していた頃、日産もレースを梃子に市場を広げていたと。

東西自動車塗装スケッチ-自分史への試み|自動車塗装の自分史とSL写真展≪田辺幸男のホームページ≫

 メモ。自動車塗装の歴史を現場で関わった人が書いた本のようだ。そのうち読む。理解できるかどうかは心もとないが…

鹿島の軌跡 | 目次

 鹿島建設の歴史エピソード集。関東大震災第二次世界大戦の二度、本社が焼けて、古い時代の史料は残っていないらしい。大工として江戸で開業、その後横浜に移転して洋館を多数建設、その後鉄道頭・井上勝の勧めで鉄道の建設請負に集中し、成長していく。建設業も、現在の大手企業って、こういう国の工事に関わって成長の機会を得ているんだよな。

 断層があるところにトンネルを建設するって無茶だよなあ…
 最初は手掘りで始めたとか、落盤事故とか。

 二二六事件の時の混乱の状況。突然、交通・通信を遮断され、避難する人々や会社を守り抜こうとする人々。工事の最中に現場に閉じ込められるとか、一般の人々からみたクーデタ事件を描く。

 鹿島家の人々を中心に。地震の揺れよりも、火災が被害を拡大した状況。安否が確認できない混乱振り。火災で焼けると思わず、本店から大半の人が帰宅してしまった状況とか。
 はたらいていた朝鮮人が自警団の襲撃をうけ、保護に苦労したことなど。

 姫路城の昭和大修理の際に、天守をつつみこむように作られた「素屋根」建設の話。木造で、これだけ巨大なものを造るのは大変そうだな。昭和の大修理前には荒廃しきっていた状況とか、心柱用の木材が輸送中に折れた話とか。

 満州での鉄道工事は、治安が悪く、頻繁に匪賊の襲撃を受けたという。

 1950年代のビル建設の姿。重量物持ち上げにデリックを使っていた姿とか、その基礎が木材で組まれているとか。なんか、現在とは全然違うな。

セルロイドサロン セルロイド余話

 鹿島の軌跡 | 第22回 山津波に遭った現場−富士フイルム本社工場増築工事から。調べてみると、鈴木商店→大日本セルロイド(現ダイセル化学工業)→富士フィルムという系譜関係にあるようだ。今では、富士フィルムの方が有名になっているが。セルロイドの市場として、フィルム生産に注目したのか。


セルロイドハウス
 こちらがホーム。セルロイド工業の歴史研究や読み物などがある。

技術のわくわく探検記〜株式会社 池貝・史料館 川崎工場

 工作機械メーカー池貝の展示施設の見学記事。同サイトには、他にも技術遺産探訪記事が多数。