三浦佑之『風土記の世界』

風土記の世界 (岩波新書)

風土記の世界 (岩波新書)

 日本書紀古事記という文献に、風土記という補助線を入れることで、より豊かな古代の伝承の世界を見出そうという本なのかな。日本の神話については、あまり知識がないので、なるほどという感じだが、より立体的に見えてくるようでおもしろかった。さらに、現在では意味がわからない伝承に、さらに豊かな伝承世界が想像できる、か。失われた情報の巨大さ。


 大陸諸国の属国になることを避けようと躍起になっていた古代の朝廷は、律令によって国際基準の制度を整え、中国の正史にならった紀伝体史書を編纂することで、精神的な正統性を確保しようとしていた。「日本書」の「紀」が、現在に残る日本書紀で、風土記支配下の地域を記述する「志」の参考資料として編纂されたものと指摘する。「列伝」の資料も集められていた形跡があると。「日本書」と「紀」が、書写される過程で一体化して、「日本書紀」ね。
 一方、「古事記」は朝廷が正式に編纂した書物ではなく、伝承などの資料を、何らかの理由で私的に編纂した書物だと指摘する。
 王権に付属する語り部の存在。それが、風土記に現れているという指摘も興味深い。


 中盤以降は、現存する風土記を、常陸、出雲、播磨・豊後・肥前を分けて紹介。それぞれの章で、日本書紀風土記古事記の立場の違いを浮き彫りにする。風土記も、朝廷の立場を強く反映した、官選の資料であることには変わりないと。
 あと、地名の由来伝承が、やけに即物的なのが印象的だな。「天皇や神が○○したから○○」みたいなので、しかも言葉遊びみたいなのが多い。
 常陸国風土記では、巡行する「倭武(タマトタケル)天皇」の姿がメインに取り上げられる。日本書紀古事記に出てくる姿とは異なる、穏やかに巡行する姿。同時に、中央も含む、系譜伝承にブレがあることが明らかにされる。天皇の継承順序が公式に確定したのは、日本書紀によってであったと。
 あるいは、有名な夜刀神から、現地の社会が国家に絡めとられつつ、「神」がしたたかに生き延びていく姿。あるいは、歌垣の伝承を題材に、変身伝説を描き出す。


 続いては、出雲国風土記。出雲関係の神話をほとんど無視する日本書紀と、詳しく取り上げる古事記の中間に位置する風土記。郡司層が取りまとめて、提出したものだが、その中心となった出雲臣の拠点が、出雲大社が位置する出雲郡ではなく、意宇郡を拠点としている。このねじれから、西部に勢力を持つ神門臣と東部に勢力を持つ出雲臣の対立関係。大和の勢力と結ぶ着いた出雲臣の勢力が、筑紫と結んだ西部の勢力を圧倒した歴史を反映したのではないかという仮説を提案している。あくまで仮説とはいえ、風土記という補助線があるだけで、こういう見方が出来るようになるのだな。
 国引き詞章の韻律的な文章から、出雲の王権に従属する語り部の存在。「越」の国への視線から、出雲を中心とし、外部を異界とみなす、王権的な視線が成立していたこと。出雲の母神カムムスヒ神の存在。出雲の王権が存在したこと。
 カムムスヒ神に対する視線の向け方も興味深い。日本書紀では一元的な国家の神話を創出するべく、消し去ろうとする。一方、古事記では、風土記に近い伝承が記さる。両者の立場は、非常に離れていることが指摘される。


 最後は、播磨、豊後、肥前をまとめて扱う。
 瀬戸内海周辺まで広がるオオナムヂ神の信仰圏。地域の女性首長の姿。オキナガタラシヒメ(神功皇后)の新羅遠征伝説にまつわる鮎を使った占いの伝承。
 稲作をめぐる神話。稲作が、自然=神の領域を強く侵犯する行為であったこと。それが、神が落としたとか、神の死体から生じたという伝承になると。