- 作者: 高村雅彦
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2000/04/01
- メディア: 単行本
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中国人がつくるからといって、中国の都市とは限らないとよくいわれる。都城を頂点とする中国都市の特徴を備えているか否かに注目するほうが、むしろ重要なのだという。
(中略)
中国人は、いったん外に出ると、自国にたいする思いがふつふつと沸き起こり増幅して、それを自分の住むまちに実現しようとする。しかし、それはけっして中国都市がもつ権力的かつ支配的な特徴ではなく、自らが心のなかにもつ風景ではなかったか。
もはや中国都市の概念が地理的にどこまで伝播したかを知るより、気候や地形、社会のあり方など、個々の場所の条件に応じて、中国人それ自体がいかに都市空間をつくりあげていったかを具体的に探ることのほうが、時間はかかっても、はるかに重要な作業になるはずだ。
(p.87)
個々の部分は著者に賛同。都城しか見ない都市史は、かつての西洋史の「自治都市しか都市じゃないやい」といった都市史を思わせる。そして、それは1つのイデオロギーの発露でしかなかった(筆滑りすぎ)。そこを乗り越え、都市的集落まで視野に入れるのは、都市を理解するうえで重要なことだと思う。
蘇州の街路の歴史的展開に関する議論は、著者も自ら書いているが、少々根拠が薄い。蘇州の都市計画に、周の距離の単位が適用されたかどうかは、慎重に考えるべきでは。そこまで周の影響力が強く及びえたのだろうか?
九世紀唐代までの江南は、東シナ海からの塩水の進入、草木の生い茂る広大な水面など、人間の居住や生産には不向きで、環境や地形がきわめて不安定な状況にあった。したがって、都市や集落の立地は、わずかな山間部や微高地に限られ、蘇州もまた周辺よりもやや高い場所に立地する。
十世紀から十四世紀の宋代から明代初期までは、江南の自立をめざして、統一的な開発が始まった時期といえる。耕地造成を目的として、内陸の水を排水するために、長江や東シナ海に抜ける大掛かりな水路網が整備された。これにより、「蘇州や湖州が熟すれば、天下に足りる」と歌われるほど、このあたりは中国を代表する穀倉地帯となる。
(p.42)
低地の開発の難しさについて。