茅の輪くぐり

 通りかかった保田窪菅原神社でちょうど茅の輪くぐりの輪が作られていたので、くぐってくる。そう言えば、左回り、右回り、左回りでくぐらなければならないそうだが、ただくぐっただけだった…




 境内の石碑。昭和9年の300年祭で大整備されたらしく、境内の石灯籠をはじめとする石造物は全部、それ関連だった。寛永11年(1634年)に新地鉄砲組を入植させて作った村落だけに、創建年代も明確。菅原神社だけに牛さんが。



「熊本協同隊出陣の地」



 ここに熊本協同隊が終結したらしく、その記念碑が。1977年に西南戦争100周年で建てられたものらしい。碑文はメモしていない。


追記:
右面

 西南役に際し、熊本民権党は薩軍に呼応するた
め、この神前に集結し、平川惟一を隊長にえら
び、同志四十名が檄を読みあげて出陣した

裏面

西南の役百周年記念
 昭和五十二年十二月建之 熊本市



詳細不明の碑

 「協同隊出陣の地」碑の隣に並んでいる石碑。磨滅が激しくて読みとれない。「武運長久を願い奉る」といった意味の文章と明治の年号が書かれているようだ。日清か日露戦争の出征に際して建てられたのだろう。


「三百年祭記念碑」

 1934年(昭和9年)の創建三百年祭を記念して建てられたもの(だろう)。こちらも碑文を読んでいない。文章が多くて、メモるのがめんどかったし…
追記:

肥後藩主細川忠利公始めて封に就くや城下を巡視して白川の
辺に至り地を其東西に察して屯耕の制を布んと欲す所在の処
士及他の子弟に命じて一邑を成さしむ当時正に四十有五戸之
○吾保田窪村の始とす衆の相謀って天満宮を創立し迎て以て
産神と為す時に寛永十一年今の我菅原神社則是れ也爾来悠々
三百歳神威遠近に光被し風盛んに俗厚く現に一百四十余戸
孜々として其業に勤む正に是城東の一好区たり先是邦家事無
ければ民入って農に力め武を励み事有れば出でて軍に従い公
に奉す遠くは島原の戦近くは明治以降内外の戦役勲績を立つる
者蓋鮮しとせず是一つに神明佑護の致す所誰か感仰せされん
や今茲に周年紀祭を行ふに当り碑を建てて此の由○○○
して奉寶の微意を志すと云爾


昭和八年五月 菅原神社三百年祭奉賛会撰荒木勝彦謹書

碑文自体が読めないところと、あとでメモが読めないところがあって、あちらこちら怪しいが… ○は読めなかったところ。