桜井英治『贈与の歴史学:儀礼と経済のあいだ』

贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書)

贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書)

 ここしばらくペーパークラフトに時間を使っていたので、なかなか読み進まず、時間がかかった。一週間か。あと、切れ切れに読んだせいもあるが、なんか全体的な流れがピンとこないところが。個々の小単位では興味深いが、全体の流れがつかめなかったような。儀礼の時空の後にある、何かまではつかめないというか。
 第一章は、贈与の全体的な議論、神への贈与が税へと転化する租や調、初穂など、そして人同士の贈与が税となる守護役、タテマツリモノを紹介する。
 第二章では、そのような世俗化、税化する贈与が、どのようにして生命力を維持したのか、その強制力を追及している。特定の金持に祭礼の費用を負担させる馬上役が有徳銭に転化する状況を材料に、神への寄進によって禍を避ける信仰から、富の平準化を目指す有徳思想の存在を指摘する。また、中世には、「先例」が重要であり、いったん贈与のパターンが定着すると、それが義務として定着するというあり方を指摘する。最後に、中世人が、様々な分野で「等価であること」にこだわり、それは贈答でも同様だったこと。それが交換性・等価性という観点で「商品」に近付いていることを指摘する。
 第三章は、贈答と商業の関係を検討している。贈与によって集まったものが、商品として市場に放出され、さらに市場から贈答品が調達される様や物資の調達手段としての贈与。さらに、日本の特殊性として現金の贈答が行われていること。その贈答に際しては「用脚折紙」という金額や宛先を書いた目録を先に持参し、その後現金を届けるという形式を踏んだこと、その決済はかなり時間をあけて行われることが多かったという史実が紹介される。そのような折紙が幕府の財政に利用されたり、清算時に相殺される、証券のような様相を呈するようになったというのが興味深い。しかし、為替のように、譲渡流通が一般化しなかった所に、贈答儀礼の臨界点を見る。
 第四章は、将軍の「気前のよさ」や将軍が所持していた美術品「御物」の話。儀礼の「劇場性」とそれを見る観客としての広義の「法」ともいうべき存在の指摘。
 三章と四章の接続がいまいち分かりにくいのと、この部分をいまいち理解していないところが、本書の全体の流れが見えなかった理由だと思われる。


以下、メモ:

 ところが前近代の税に関しては、国家や領主の暴力と脅迫――いわゆる「経済外強制」によって、民衆は納税を拒否するすべをもたなかったという説明に、歴史学は長いあいだ安住してきた。じつにこの「経済外強制」という概念こそ、税の研究を停滞させてきた元凶にほかならない。だが一九七〇年代以降、マルクス主義歴史学の影響力が後退したことで、さまざまな概念の洗い直しがはじまり、その過程で「経済外強制」という概念の空虚さもしだいに露呈することになった。その結果、前近代においても国家や領主が課税をおこなうには人びとを説得し、彼らの合意をとりつけうる「正当な」理由が必要だったと考えられるようになり、こうして税の起源や、それを正当化するレトリック、さらに合意形成のプロセス等々を解明する作業がようやく動きはじめたのである。p15-16

 実際、無理矢理持って行くのはコストが高い上に、それで経済活動が立ち行かなくなったら、そもそも税金も取れなくなるわけで。

 中世の日本は、文書の発給や訴訟などさまざまな場面で礼銭=非公式の手数料が求められた社会であった。賄賂社会といってしまえばたやすいが、公式の手数料というものが存在しなかった社会では、サービスにたいしては非公式の手数料である礼銭で報いるしかない。それは賄賂と紙一重、というよりそもそも区別しようのないものなのだ。p.68

 ヨーロッパでも、中世には、裁判権というのは収入になりうるものだったらしいし、こういうのは洋の東西を問わないのだろうな。

 もうひとつ、これはさきの遊佐長教の事例にかかわることだが、不満の表明が原因発生から一年以上もたって突然なされていることにも注目したい。証如が原因をつくったのは一五三五年(天文四)一一月であったにもかかわらず、遊佐から不満の表明がなされたのは三七年三月と、じつに一年半近くもたってからのことであった。しかもその間、何食わぬ顔で贈答や書状のやりとりが続いていたというのも現代人には信じがたいところだろう。
 そのような執念深さと二面性を、中世の人びとはたしかにもっていた。彼らの帳簿の付け方はきわめて厳格であり、たとえ些細な「不足」であろうとも、それが回収されないかぎりは何年でも貸し勘定として繰り越されていった。目をつぶるとか、水に流すといった選択肢はそこにはない。彼らは何年ものあいだこの「不足」の存在を忘れず、回収の機会をじっと待ちつづけることができたのである。
 だが一方では、その間に平然と贈答や書状のやりとりがおこなわれていたことや、原因が解消されればすぐさま良好な関係が回復していることからもうかがえるように、彼らの不満がかならずしも相手の人格そのものの否定には向かわなかったことにも注意する必要がある。現代人であれば、一度このようなトラブルのあった相手とは、「あんなやつとはもう付き合わない」と絶交してしまいかねないところだろうが、中世人はそうではなかったのである。ルース・ベネディクトの表現を借りれば、「彼らはアメリカ人のように、ある人を不正であると言って非難する代わりに、その人間がなすべき務めを完全に果たさなかった行動の世界を明らかに示す。ある人を利己的であるとか不親切であるとか言って非難する代わりに、日本人はその人間が掟に違反した特定の領域を明示する」(『菊と刀』)というのが彼らの典型的な行動様式であり、よくいえば“罪を憎んで人を憎まず”が彼らの流儀であった。
 ただし、このように批判がかならずしも人格の査定に直結しなかったということ(批判の非人格性)は、逆に相手の行為を評価するばあいにも、その評価は人格まで到達しにくかったということ(評価の非人格性)を意味してもいる。もちろん中世にも「懇志」という言葉があったように、心のこもった贈り物というものがまったく存在しなかったわけではないが、より多くのばあい、贈与は定型化、ルーティン化した行動様式として存在していたにすぎないようにみえる。かりに心のこもった贈り物がなされたとしても、その心まで評価されることが少ないとしたら、そもそも心のこもった贈り物をしようとおう動機が育つだろうか。p.93-4

 中世人のドライさというか、人間関係の特色。

 ところで、日明貿易の輸出品を贈答儀礼によって確保するという方法には、じつは先例があった。一五世紀の日明貿易では扇子が主要な輸出品のひとつだったが、その扇子は、室町将軍が年頭に京都の禅宗寺院を歴訪する、いわゆる年始御成のさいに、寺院から将軍に献上される引物(引出物)のかたちで調達されていたのである(桜井「「御物」の経済」)。p.131

 ほへー