本郷恵子『蕩尽する中世』

蕩尽する中世 (新潮選書)

蕩尽する中世 (新潮選書)

 うーん、「蕩尽する」という割には、その蕩尽にフォーカスが当たっていないような。どちらかというと、財貨の中央への移動とそれにかかわる人間関係といった感じか。
 最初の二章は院政期。院政の成立によって、院とその近臣に富が流入していく状況。生産社会と宮廷社会の結節点としての「受領」の存在。現地でのさまざまな実務を担当した目代の仕事と出自。官司などへの必要経費の納入から、受領が現地で集めた富を京都周辺に運び込み流通に投じ、そこから富を得ていた状況を明らかにする。そのような、支配の状況は、後には転換し、それぞれの国からの租税は定額の請負になり、宮廷と地方の関係は希薄になっていく状況を指摘する。一方で、平氏は現地の支配者との関係を維持し、「受領の最終形態」へとなっていくという。
 第三・四章は鎌倉時代。第三章では、同時代の隠遁文学の作者が荘園領主層の末端につながるが、活躍の場を得ずドロップアウトした人であること。「大福長者」の考えから富の拡大を目指し、そのために欲望を押さえる「資本主義的」な志向の存在。資産の用益権を保持する荘園領主層と、彼らから所領の管理を請け負う金融業者の二つの経済圏の存在を指摘する。
 第四章では、有力御家人であった千葉氏の家政・資金調達の状況を、日蓮の著書の紙背文書から明らかにしている。大番役や御所などの造営事業の分担など、膨大な支出を強いられるが、そのために金策に走り回る人々がいたこと。また、隷属身分の下人に関連するトラブルや全国の所領の支配拠点としての京都の屋敷の話など。本章では、「生産の現場では、支配する者とされる者の間で暴力的な恫喝と恐怖の交換が行われていた」とするが、このあたりどうなんだろう。あんまりむきだしの恐怖や暴力の行使が行われていては、経済状況が悪くなる一方のような気がするが。感情の発露の仕方が違うという考え方もできる。史料にはトラブルが起きた時の感情が表現されるが、逆に平常時は儀礼などを通じての心情的・身体的な共感関係が存在したのではないだろうか。最後に、浄土思想から撫民思想の出現が指摘される。
 第五章は鎌倉末から南北朝期の「悪党」について。在地で資金力と軍事力を保持する有力者が出現するようになり、互いに対立する場合に「悪党」と指弾しあったという指摘。また、ローカルな利害関係が、人脈を通じて調停や幕府まで連なっている状況。それが、調停や鎌倉幕府の支配システムを揺るがしていった状況を指摘する。
 第五章は室町時代。贈答や「御物」「名物」から、モノの価値意識の変化が指摘される。このような状況から、近世の「生産と蓄積、発展と成長というあらたな富の活路を見いだした」とまとめている。けど、このあたりいまいち納得できないところが…


 具体的なディテールは面白いのだが、全体的な議論に関してはちょっとといった感じか。

 前述のとおり立太子・譲位・践祚を一日で行うという無理を通したのだが、白河としては、新帝候補者として有力な異母弟を排除し、自分の直系を天皇位につけたかったのだろう。彼は幼い息子に代わって政治の実権を握り、ここに院政と呼ばれる新しい政治形態が出現した。院政とは、父から息子へという男系による直系相続を、父が壮年のうちに確定しようとする要請から生まれた政治方式である。院政の出現によって、母系に拠る摂関政治から男系原理への転換がはかられたといえよう。同時に貴族社会内部の結びつきも、女性的なものから男性的な性格に移行することになった。p.41

 院政の出現が、女性原理から男性原理への転換点であったという指摘。

 山木兼隆二階堂行政係累は、犯罪や合戦が絡んでいるために、文筆よりも武力に勝るという印象を受ける。だが目代の仕事が多様であると同時に、あまりにもとりとめがなく、専門性や職掌の別に無頓着なのと同じく、合法と非合法、文と武の区別もまた曖昧であり、さらには芸能との境界もさだかでではなく、もっぱら問題解決能力の有無が登用の基準だったのであろう。そして、そのような能力を培うのにもっとも効率的な場が、京都の貴族社会や都市的空間だったのではないだろうか。都から下ってきた人々は、地方においてはそれだけで重んじられ、縁を結びたいと求められる存在だった。都落ちの理由など、誰も問わなかったのである。p.63-4

 目代の出自と性質。おおよそ、下級官人層で、京都から地方に移動した人間が登用されたという。まあ、文書行政の実務を身につけるだけでも、朝廷に所属するのが有利だろうしな。

 主殿寮にしてみれば、国下では、支払いを受けるために、主殿寮の要員が現地に下って、国衙の役人に要求しなければならない。京下なら、京都にいながらにして支払ってもらえて、交渉もずっと楽なはずなのである。だが国司のほうは、国司庁宣を渡して、あとは現地の国衙に任せてしまえば、京都における自分の懐は痛まない。国司が現地に下らず、在京することが一般的となり、国司の資産と国衙の財政とが必ずしも連動しなくなった事態の結果であった。p.72-3

 国司国衙の財政の分離状態。

 結果からいえば平清盛が描いた海へと展開するデザインは全うされることなく、壇ノ浦での滅亡によって終わった。平氏政権は武士の京都への登場の成果であり、本格的な武家政権である鎌倉幕府の先行形態だとするのが通説である。だがこれまで述べてきたことからすると“武士”であるのは平氏の一面に過ぎないのではないか。彼らの多彩な活動のひとつに武士的なものも含まれていた、あるいは、さまざまな能力のなかで武力という要素がきわだっていたと考えたほうが適切ではないだろうか。
 平氏が全国支配を進めるにあたっての大きなトピックとして、仁安二年(一一六七)、清盛の太政大臣辞任と前後して、嫡男の重盛が東山・東海・山陽・南海道諸国の賊徒追討を命じる宣旨を得たことがあげられる。当時これらの地方にとくに危険な状況は見受けられず、具体的な追討命令というよりは、平氏に国家的な軍事・警察権を与えるのが狙いだった。清盛の実質的な政権掌握の結果であり、清盛から重盛へ、一門の権力を一部移譲する意味ももっていたのである。政治力を背景とする軍事力拡大で、のちの鎌倉幕府が、治承・寿永の全国的内乱と混乱のなかでの軍事行動を梃子に、朝廷による追討命令を獲得しながら支配圏をひろげていったのとは逆の展開といえよう。
 本章のはじめでは、受領の配下に求められる能力が未分化で多方面にわたることを論じた。文筆や経理の能力とともに、国内の秩序維持や徴税にあたっては武力もまた欠かせない要素だった。そうであれば平氏政権の本質とは、武力に傑出した全国規模の受領、すなわち受領の最終形態というべきものだったのではないだろうか。平氏は一国単位ではなく、全国を経営の対象としており、その方針を支持する各地の武士団や有力者を傘下に集めた。より広い範囲を経営対象とすることによって、物流は合理化され、回流する富は増大する。平氏の軍事組織も、一種の利益共同体と考えたほうが適当で、平氏権力の低下とともに人々が離散するのも不思議ではない。p.93-4

 受領の最終形態としての平氏ってのは、興味深い見かた。確かに、そういう感じはあるのかも。

 庶子家や地方所領を管理するために、京都大番役は重要な意味を持ったようである。地方の人々にとっても、在京の惣領の裁判権を活用する機会となっていたのだろう。小城郷内の力関係に満足できない勢力が、遠く下総の惣領に訴え、京都において裁判がひらかれるという状況は、地域の限定性を越えた広範なネットワークが成立していたことを示唆している。だがこのことは同時に、特定地域における独自の支配や成長を妨げ、問題を複雑化させる要因にもなったのではないだろうか。庶子家は、惣領の存在によって、支配下の住人に対する裁判権を侵害されながら京都での公事を遂行したり、惣領の大番上洛費用を立て替えたりしなければならないという負担を課されていた。庶子家が抱える不満は、蒙古襲来をむかえた危機的状況のなかで表面化することになる。全国をむすぶ拠点として京都が機能することは、多元的・多層的に展開する関係を安定させるとともに、それらを複雑化させ、地域におけるより単純な関係の成立を遅れさせる要因ともなったのである。p.153-4

 御家人の所領・人脈ネットワークの拠点としての京都。確かに、この状況からは地域主権というか、そういうものは生まれそうにないなあ。このようなシステムが続いていれば、日本の社会はイスラム圏や中国のような不安定さを持っていたかもな。

 鎌倉武士というと「一所懸命」という言葉が思い起こされ、先祖伝来の土地を守り、一生をその地でおくるというイメージがあるのではないだろうか。だが今まで見てきたように、千葉氏においては守護国の下総と、名字の地(名字の由来となった本拠地)である同国千葉荘のほかに、庶子家のおさめる肥前国小城郷、いまひとつの守護国である伊賀、さまざまな公事をつとめる鎌倉・京都など全国に散らばる多くの拠点を結んで、多くの人が移動し、情報や物資がやりとりされていた。このような状況は千葉氏に限ったことではなく、本拠地に加えて幕府から恩賞として与えられる所領で構成される御家人領は、散在性が高く、全体としての経営の効率性などはほとんど意識されていなかった。合戦の結果、敗北した側の所領は没収され、恩賞として勝利側の御家人らに分配される。惣領はこうして獲得した所領を拡大する一族にあてがい、全国に展開する所領と庶子家を支配・管理しながら幕府の要請をこなしていかなければならない。庶子家に公事経費を配分し、合戦の際には一族がそのまま戦闘単位になるのである。だが閑院内裏造営をめぐっる千葉頼胤(亀若丸)の訴えにあきらかだったとおり、惣領は散在する所領や一族を統制することができず、それぞれの所領の中で細分化された支配単位が、実際のところどれほどの負担能力があるのかも掌握しきれていなかった。p.162-3

 中世前半の所領の散在性。選択肢の中ではある程度考慮するんだろうけど、偶然性によるところが多いだろうしなあ。効率化は望むべくもないのだろう。

 このような状況の中で、資金と実力を蓄えた悪党の出現は、上から下への連鎖を断ち切り、連鎖の方向を変える意義を持ったのではないだろうか。悪党や有徳人は、上級領主に対して必要な資金を確実に提供する。下への連鎖はそこで下げ止まることになろう。悪党の位置は富の結節点となり、そこに多くの力が結集される。史料上で彼らの存在があきらかになるのは、荘園領主や百姓から反発され、訴えられている場合が多く、ひどく疎まれていたように見える。だが実際には、上からも下からも結集すべき場所を求める動きは多かったはずである。そこには明らかに資金があり、力があり、ということは自由があるからだ。しかもしれは従来の弱い者を苛み、駆使する自由ではなく、みずから判断し、選択する自由である。p.204

 「悪党」が、後々の一円支配、領域支配の原型になったということはあり得そうだと思う。

 八朔の贈答は、楽しくもあり、重荷でもありというところだっただろうが、不思議なのは、誰もがかなり気を遣って品物を整えているにもかかわらず、贈ったもの、あるいは貰ったものについて、あまり詳しい記述がないことである。とくに、こういうものをもらって嬉しかったとか、気に入ったという感想はほとんど見られない。自分と相手との身分差や力関係に応じた、礼を失しない贈答を行うこと自体が重要で、それぞれの品物の個性や趣向はほとんど認識されていなかったようだ。p.223-4

 このあたりの感覚の違いはおもしろい。