千田嘉博『信長の城』

信長の城 (岩波新書)

信長の城 (岩波新書)

 おもしろかった。信長の家臣団をどう統制するかの思想が、城や城下町の構造にはっきりと刻印されているのだな。
 もともと、尾張の武士の城は、方形の堀と土塁を持ち、内部に室町時代儀礼にかなった館を持つ館城が基本であった。これらの館城が並列的に集合したのが、清須城などの政治中心地であり、それぞれの有力武士が、中心の城と同等の防御能力を持つ、並列的な武士団の構造が示されている。
 小牧山城以降、岐阜城安土城と、信長は有力家臣の半自律的な状況を克服し、自己を中心とした求心的、近世的家臣団形成を目指す。信長自身が居住する本丸を、石垣や巨大な館で荘厳し、他の家臣と隔絶した地位を誇示する。考古学的成果や、地名や地籍図の検討から、城の姿を復元していくのも興味深い。麓の「表」の館と頂上の「奥」の館に、機能が分かれていて、信長は頂上の奥の空間に常住していて、表の空間は、家臣団との対面儀礼や身分の高い客人を迎える際に利用されたこと。懸け造りの巨大な館が、城の石垣の段差を無視して、頂上の空間を覆っていたという姿も興味深い。なんか、天守が単独で目立っていたのではなく、館も含めてかなりボリュームのある姿を見せていたんだろうな。熊本城も本丸御殿が再建されて、ずいぶん、天守閣の印象が変わったけど。
 あと、興味深く思ったのは、信長の城の防御縦深のなさ。岐阜城にしろ、安土城にしろ、頂上付近の本丸だけガッチリと石垣で守られて、周辺の尾根筋をあまり強固に守っていないのが印象的。後の近世城郭だと、山全体に何重もの石垣による防衛線が形成されるが、この時代はそこまでやっていない。だからこそ、関ヶ原合戦の時に、岐阜城が一日で陥落したのだろう。熊本城も、段階的に郭が広げられて、最初の段階では本丸のみが、頂上に作られたというし、本来の織豊系城郭のモデルというのは、現在と比べるとずいぶん簡素なものだったといえるのではないだろうか。
 城下町の変遷も興味深い。小牧山城では、直臣や直属商工業者を城下町に集住させ、城内の館は防御力を持たない一元的な構造を形成したが、大身の有力家臣を取り込むところまではいかず、城下町周辺に従来型の城館が散在した。また、城下と市町の二元的な都市構造も克服できなかった。岐阜城は家臣団の一元的な集住化は達成したが、惣構の外部に市町が立地する二重構造は克服できなかった。最終的に、安土城下町で、地域の流通機能も包含する一元的な城下町の形成に成功する。ただ、地籍図から復元した城下町を見ると、まだ、ずいぶん凝集度が低い、ゆるい統合に見えるな。
 また、安土城段階でも、家臣団の城下町集住は完全には実現していない。馬廻りの直属家臣団ですら、妻子を尾張においている事例が多かったこと。領国に居城を持つ有力家臣は、城下町に常住しているわけではなく、重臣の屋敷が集中する麓の街区は住む人の少ないさびしい状況だったこと。また、外様の戦国大名の屋敷は、長年の同盟者である家康の屋敷すらなく、織田領国の首都ではあっても、「天下人」の城とはいえない、首都性が未熟な状態であったことが指摘されている。結局、信長は武力で領国を拡大したとは言え、それと同等の権威は勝ち得ていなかったのだろうな。後継者となった秀吉は、関白となり、朝廷の権威を利用して、「惣無事」令による全国への威令を実現したわけだが、信長段階ではそこまで行かなかった。本能寺で信長が斃れず、征夷大将軍に任じられていたら、その後の歴史はどう展開していたか、ちょっと気になるところだな。
 安土城に関しては、天守や館の復元、それにともなう先行研究との議論に、かなりのページが割かれているが、そっちはあまり興味ないな。安土城郭調査研究所による、大手道の直線道路や本丸の屋敷の構造の解釈が、行幸を前提としているが、それは無理やりな解釈で、安土城のプランは必ずしもそのために造られたものではない。また、天守に関しては、懸け造りによって天守台の石垣からはみ出していて、先行の復元は成り立たないという指摘がなされている。
 最終的に、信長は、既存の諸要素を再配置することによって、以前とは異なる求心的な体制を創出しようとしたと、城の読み取りから評価している。このあたり、先に読んだ『織田信長〈天下人〉の実像』のなんか無頓着というか、意外に穏健な姿とは、いまいちつながらないような。革新性と保守性をどう、一元的に叙述するか、そこが今後の信長研究の課題になってくるのだろうか。


 あと、気になるのは他の戦国大名がどのくらいの密度で調査されているのか。他に本拠を移した戦国大名って、あまり思いつかないけど、北条家なんかは小田原に至るまでに本拠を移している。他に、大友家も、島津に攻められた結果だけど、府中から臼杵に移転している。こういうのと比較しないと、革新性って見えてこないんじゃなかろうか。


 以下、メモ:

 那古野城下に凝集的に建設された館城群の堀が、一六世紀半ばのものとしてはきわめて大きく、強力な防御性を発揮したことには注意が必要です。宿老などの有力な家臣が、信長の那古野城と変わらない防備を施した館城を築いて軍事力を分有し、相対的に高い自立性をもったことを示すからです。那古野城は城下の宿老らの館城と比べて面積では卓越しても、防御力の発揮という点では互角だったと考えられます。p.34

 家臣団の連合団体としての戦国大名という構造が、こういう館城群に表現されていると。それを信長は克服しようと試みていくことになる。

 のちに検討するように、この時期には多くの大名たちは山城に拠点を移していて、清須城のような室町時代の将軍の館を手本にした館城を拠点としたのは、大名の本拠の変化に遅れた城郭形態だったといわなくてはなりません。しかし低平な清須周辺には山はなく、物理的に山城を築くことはできませんでした。「南矢蔵」「北矢蔵」という立派な櫓を備え、防御を重視した館城を清須城に接して建設したのは、尾張における戦国期拠点城郭への変化だったのでしょう。
 一般的な城郭発達の流れでは、館から平城へという変化を思い浮かべます。しかし清須城では館そのものが複郭化して平城化したのではなく、あくまで防御を重視した館城を並立的に配置するのに留まったと分析できます。周辺の館城群を清須城を核として階層的に再配置できるような、政治体制にはほど遠かったからです。p.49

 大名が自力で地域の武士たちを家臣化し、自力で地域を治めていく戦国後期の政治体制に対応した城郭のかたちでした。各地の戦国大名たちが続々と居城を戦国期拠点城郭へ移転していったなかで、信長は戦国期拠点城郭の出現から五〇年も遅れて、山城を拠点にしようと動いたのです。信長は常に時代の先端を切り開いていたのではありません。それどころか居城の選択という点では、大幅に遅れた大名だったとさえいえます。いずれにせよ守護の権威を背景にした守護の館城・清須城と決別して、小牧山城を選択したことは、信長にとって大きな画期であり、政治的に重大な意味をもったのです。p.69-70

 他の戦国大名と比べると、むしろ周回遅れだったと。

 小牧山城中心部の石垣は、信長にとってはじめて本格的に築いた石垣でした。しかし驚いたことに、一五六三年(永禄六)当時の石垣として小牧山城の石垣は、畿内の城郭石垣と同等の最先端の技術水準にありました。各地の大名は戦国期から近世初頭にかけて石垣の城を築いていきましたが、それぞれの地域で最初に出現した石垣の城は、地方色や技術的な未熟さが見られました。そうした試行錯誤は、小牧山城の石垣にはまったく見受けられません。
 発掘で見つかった小牧山城の石垣の積み方を詳細に観察すると、戦国期に石垣先進地帯であった滋賀県の城郭石垣との共通性を指摘できます。一五三〇年代(天文期=一六世紀第2四半期)から畿内周辺では、山城に石垣を用いるようになっていたので、一五五九年(永禄二)に上洛した信長は、畿内と周辺の戦国期拠点城郭を実見して、石垣を使った山城に衝撃を受けたのでしょう。p.110

 小牧山城の石垣技術は、近江近辺の技術をセットで導入したらしいと。
 あと、戦国時代の大名って、領国に篭りっきりって訳ではなく、意外と上洛しているんだよな。

 この記述は、岐阜城をはじめとした戦国期拠点城郭を考える上で、大変重要です。信長が山麓館ではなく、山上の城に家族と共に住んだことを明示したからです。のちに検討するように、当時の戦国大名たちは、基本的に山城に住んでいました。ふるい城郭史の理解では、戦国期に山城が発達しても、日常の住まいと政庁は山麓の館にあって、山城は軍事的な機能に特化した施設と考えられてきました。
 しかし戦国期拠点城郭では、居住・政治・軍事の機能を山の上の城郭が統合的に果たすように変化していたのです。室町時代までの山城と戦国期の山城との決定的な違いでした。従来、居住・政治施設としての役割ともたなかったと誤って評価されてきた戦国期の山城は、政治史的な視点から、城郭史の傍流と評価されることもあったのですが、実態は大きく異なったのです。p.143

 山の上に住むのは大変そうだけど。あと、そのために通う人がもっと大変そう…

 大津・坂本は近江と山城との境にあって、東海道東山道北陸道につづいた山中越えや逢坂越え、小関越えなどの街道が通った交通の結節点でした。岐阜と京都とを往復した信長にとって、必ず確保しなくてはならない要地でした。信長は単に宇佐山城を築いて大津・坂本を押さえただけでなく、宇佐山城の麓に新道をつくり、これまでの道を通行禁止にして、大津・坂本―京都間の交通路を完全に掌握しようとしたのです(『多聞院日記』)。大津・坂本のすぐ北には比叡山があって。街道はもちろん湖上交通にも強い力をもっていましたので、それに対する強力な牽制でした。p.162

 これが、浅井・朝倉軍が比叡山に陣を構えた志賀の陣の時に、比叡山が反信長連合に付いた理由なのだろうな。重要な交通の利権を奪われたと。