田中広明『国司の館:古代の地方官人たち』

国司の館―古代の地方官人たち

国司の館―古代の地方官人たち

 考古学の立場から、公式儀礼に使用する衣装のベルト、国司の館の発掘事例、牧などの国司や国による地域開発などの事例を積みあげて、平将門の乱の地域的な文脈を明らかにする。隙間でちょこちょこ読んでいたせいか、ちょっと内容の記憶に自信がないけど。
 大体、4つのテーマで12章構成。
 最初は、衣服令で規定された官人の腰帯の話。各地の遺跡から、帯に取り付け帯飾りが出土する。それを比較した結果、以前言われていた位階によって腰帯具の大きさが変わるというわけではないこと。銅製の腰帯具から雑石製へと変化していく歴史的展開が明らかにされる。
 最初は銅製のものが正式だったが、銅の供給不足のなか雑石製に変更された経緯。金属や貴石は国家管理が行われたが、経済的規制外だった雑石製の腰帯具は自由に技術開発が行なわれた結果、価格競争力で銅製を凌駕するようになったという話が興味深い。ほかには、地方では中間製品が出土せず、京で生産されて、国府では工人の出張による補修工房が開かれたのみであること。
 人間関係の確認手段としての、腰帯具という話もおもしろい。制服の第二ボタンのように、集落の住人に、腰帯を切り分けて配布した。あるいは、上毛野君の東北経営の拠点に、時代遅れの古墳の習俗とともに残り、死後も上毛野君と関係を維持したいと願ったとか。


 二番目は、国司の館について。出先の居留場所が「館」と呼ばれた使い分け。拠点の居住施設は「家」。国経営の主要な拠点には館が設置されていたこと。墨書土器に残る微小地名。
 国司によって、「ハイカルチャー」にまつわる文物が持ち込まれ、地域の指導者層とそれを利用した交流が行われたこと。金泥や曲水の宴の跡などが、それを物語る。国府は、京都の文化を維持するための工房などで構成された都市的集落であったこと。また、このような物資の移動は一方通行ではなく、国司は大量の「土産」を京都の貴族の下に送り込んでいたことが紹介される。


 三番目のテーマは、桓武天皇の時代までの東北征服戦争や都の造営によって疲弊した関東地域の再開発と、そのために設置された「牧」の話。それに関連して、埼玉県の中堀遺跡の紹介。
 中央の王臣家と結んだ地域の有力者が、それまで開発されていなかった扇状地や斜面を囲い込み、牧や勅旨田として占有。国府の費用で、これらの新開地の開発維持が行われた。これが、在来の地域社会の衰退を招いた。
 その拠点のひとつが、中堀遺跡であった。ここでは、寺院が建てられ、様々な文化活動が行われ、鍛冶や酒造などの手工業などが行われ、中国産磁器や東海地方で作られた陶器などの贅沢品が貯蔵消費されていた。国府との関係の深い遺跡であることが指摘される。
 しかし、地域でも抜きん出た地位を誇った同地は、9世紀の末に、突然焼失する。かなり大規模で富裕な集落が、突然消滅するという大事件が、文字史料では残らなかった。


 最後は、これらの前提を積み上げた上で、10世紀、930年代後半に発生した平将門の乱の話。前提として上総、下総、常陸にまたがる地域ネットワークの存在。京都で前途が限られる貴族たちが、地方で有力者と婚姻関係をむずびつつ、土着していく。さらに、坂東諸国では9世紀に、院宮王臣家や貴族の荘園や牧などが、里山を占有して、設置。国府などからのテコ入れの元、運営されていた。その運営拠点には、京都からの情報や文物、外部からの輸入品が集積され、栄華を誇った。しかし、10世紀に入ると「延喜の荘園整理令」によって、荘園は国家からの支援を失った。そうなると、開発不適地にコストをかけて運営されていた耕地は、維持できなくなり、急激に衰退する。そのような、地域の全般的な衰退状況の中で将門は育った。
 その後、将門は、上野国へ活動範囲を広げるが、これは京都や東海地方の文物を入手するためだったと。一方で、将門の勢力拡大は、独自の地域交易圏である下野国北部に基盤を持つ藤原秀郷の権益と接触し、それが秀郷と将門の戦いの原因になった。
 地域の交易圏や人的ネットワークから解く将門というのもおもしろい。