安村敏信『日本文化 私の最新講義1:江戸絵画の非常識:近世絵画の定説をくつがえす』

 近世絵画史の「通説」を、作品検討から、再評価している本。サクサクと読める本。江戸時代の絵画に詳しいわけではないので、単になるほどと読んでいただけだけど。個人的には、絵の良し悪しよりも、画家個人や流派・家を、どう「経営」していたのかが気になる。弟子がどのくらいいたのか。日常、どのような活動を行っていたのか。年間にどのくらい描いていたのか。
 13のテーマに分けて、江戸時代の絵画の「通説」を批判。最後に、京狩野派、土佐派、住吉派、復古大和絵、19世紀の京都画壇など、作品の情報や研究の蓄積が進んでいない分野の人名リストがつく。

  1. 俵屋宗達の『風神雷神図屏風』は、晩年に描かれた傑作である。
  2. 光琳宗達を乗り越えようとして、琳派を大成した。
  3. 江戸狩野派は粉本主義によって疲弊し、探幽・常信以降は見るべきものがない。
  4. 応挙が出て京都画壇は一変した。
  5. 長崎に渡来した沈南蘋は、三都に強い影響を与えた。
  6. 秋田蘭画は秋田で描かれた。
  7. 封建社会の江戸では、閨秀画家の活躍の場は少なかった。
  8. 上方で大成した南画は、谷文晁によって江戸に広められた。
  9. 浮世絵は江戸庶民の芸術であり、浮世絵師になったのも庶民である。
  10. 浮世絵はのちに錦絵といわれるように、版画が主流である。
  11. 奇想派があった。
  12. 東京芝・増上寺の『五百羅漢図』一〇〇幅は、狩野一信によって描かれた。
  13. 油絵は明治になってから描かれた。

 以上の13テーマで、話が展開される。女性作家が、結構な規模で存在したらしいというのが興味深い。いま、発掘されている最中なのだそうだ。
 あるいは、浮世絵の話も興味深い。武家向きの絵画の訓練を受けた画家が、浮世絵師になっていたり、版画だけではなく、肉筆浮世絵もかなりの規模で需要があったと。天童藩が、御用金を用立ててくれた人に返礼として渡した「天童広重」みたいな、引き出物的に使われた肉筆浮世絵もあったと。
 あとは、南蘋派が絵画文化の層が薄い江戸では流行ったが、上方ではそれほどではなかった。あるいは、「画壇が一変した」みたいな事態はなかったという話は、そりゃそうだわなと。


 個人的には、県立美術館であった「雪舟流と狩野派」展に関連して、狩野派の情報が欲しかったわけだが。まあ、仕方がない。必ずしも、粉本主義ではなかったとか、中期以降の見るべき画家とか。