「被害者はいないという大きな男の人たちへ」に違和感

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 「男ですいません」としか言いようがないな。男が存在する限り、女性の心の平安はないと。
 しかし、なんというか極端というか、二元論に走りすぎなのではないかな。そうなんだけど、そうではないみたいな割り切れなさこそが、性にまつわる最大の問題なわけで。男性の性欲に理解を示しているような表現を部分的にいれながら、結局は全否定みたいに読めてしまうのだよな。最終的に性の自由を圧殺する方向へ向かってしまっているというか。
 以下、そのあたりの疑問点を整理すると。


1、暴力のハードル
 実際に暴力を振るうには結構敷居が高いと思う。相手を破壊してもかまわないという仮借ない暴力の意思、相手を制圧して自分の欲望を押し付ける意思。そのような物がないと、レイプを含む暴力は振るいえないと思う。そして、そのような意思を持つのは結構難しいものだと思うのだが。
 このエントリを読むと、はてこ氏の男性に対する恐怖感というのは、むしろ自身の暴力に対する感覚の裏返しというか、持ちえなかった男性性へのコンプレックスというか、そんなものを感じざるをえないのだけれど。夫婦間のケンカにしても、はてこ氏の側からつっかかっているように読めるし。
 私自身は男性として最弱の部類に入る(アスペルガーの人間は運動神経に制限がかかっているよなほんと)けど、少なくとも常にそのような暴力の危惧を感じるわけではない。少なくとも、そのような暴力をつかって他者を支配する性向・文化をもつ人間は、歴然とした見分けが付くものだ。
 一般的に言えば、暴力で相手を支配することは結構難しくて、それなりにコストがかかるもの。ご友人方に、失礼な感じがする。


2、女性観を固定してしまってはいないか
 なんかはてこ氏の文章を読んでいると、逆に女性を「被害者」に固定してしまっているように感じる。別に暴力は物理的なものに限らない。
 二人以上の人間の関係を政治とすると、その人間間の関係がどんなに親密で愛に満ちたものであれ、そこに主導権をめぐる政治的な争いが出現する。そして、そこで使われる武器は、もっぱら感情やモラルといったものではないだろうか。DVにしても、単純に物理的な暴力だけでなく、モラルハラスメントや相互の精神的関係がむしろ主なのではないだろうか。
 親密な人間どうしの関係は、それぞれの人の性格、人生、さらにはその時々の状況によって多様な形をとるのではないだろうか。個別事例を一般化して、世界を裁断してしまうのは危険だと思うのだけれど。
 はてこさんの家庭では、どちらが主導権をにぎっていますか? むしろ、夫の方もかなり気を使っているのではないかと思うのですが。


3、それでも残る「だけれども」
 陵辱表現に関する女性の感情は分かる。いや、そりゃ女性を暴力で屈服させるフィクションを、身近な人が摂取していれば、危惧を感じるし、嫌な気分になるのは想像できる。男の側だって、実際にはその手のものを見せたくない。実際に、その手の問題が外に引き出されてしまうと、困惑するし、極論に走ることもある。公式論では、正当化しにくい。間違いなく、「悪」の表現だし。
 でも、「だけれども」、そこに表現の問題の一番大事なところがあるのではないかな。はてこ氏をはじめとする、女性の不快感を中核とする議論は、そこをサックリと踏み越えてしまうから、違和感がある。
 例えば、犯罪被害者が復讐心なりなんなりを抱くのは至当。しかし、それが政治的なパワーを伴って、公的な言論を支配してしまうことは危険なのではないか。その点で、刑事裁判への被害者の参加には反対せざるを得ない。程度は違うけれど、感情から公論への回路の転換はワンクッション置くべきという点では、同様の問題群に属するように思う。
 「善悪」の二元論に、ちょっと隙間を残しておいてほしい。そんな感じかな。ポルノ全般が、なんとも難しい、正当化しにくい問題ではある。しかし、それを善悪で二元論的に区切ってしまうと、逆に害が大きいように思う。フィクションの中の悪は、すべての人間にではないけれど、現実の悪に対する自覚をつくるのではないか。そう思うのだ。


 あと、今回の東京都の条例改訂の問題について言えば、むしろ主標的は「女性の性的自己表現」なんだけどね。すでにゾーニングがかなり貫徹されている男性向けの性表現(少年誌のエロなんかは規制を前提にして、その枠の中での表現)よりも、いままでゾーニングが行なわれてこなかったボーイズラブティーンズラブが集中的にやられかねないというのは、『女性向け創作活動をしている人の為の、非実在青少年規制対策まとめサイト』でも語られている通り。そこのところは、強調したいところ。

女性の暴力

 今読んでいる、松原隆一郎の『失われた景観』という本に、こういう一節がある。

 卓抜なロック論『人格知識論の生成――ジョン・ロックの瞬間』を著した一ノ瀬正樹氏は、Personが意味するものに注目を促している。一ノ瀬氏によれば、Personは「人格」と訳されなければならない。(中略)そこでは人と身体の労働と財の所有権が、別々に切り離されて存在するものと理解されている。これに対し一ノ瀬氏は、人格とは、財をも取り込むものだと主張する。我々はある人の人格について語るとき、その人の「内面的な性格や人柄だけでなく、何を食べ何を着るか、どういう家にどういう家族と住んでいるか、どのような蓄財があるか、どういう人々と交流しているか、どういう仕事をなしたか、といったいわば外的な財にまで言い及ぶ」と言うのである。永井荷風といえば玉ノ井や浅草といった下町の情景が浮かぶ。画家の中川一政にとって、描き続けた真鶴の情景はその人となりと切り離せないものだろう。つまり、一定の個性ある景観は、ある人の人格と不可分であるはずなのだ。一ノ瀬氏は「人格」にかんするこうした理解を「人格要素説」と呼ぶ。それによれば、人格と財とは本来的に分離されない。それゆえ財の使用・譲渡・交換により、人格は変容していく。新しい家に住めば人格は異なってみえる。財物の使用や譲渡は、人格の一部を使用し譲渡することでもある。p.128-9

 つまり、周囲のモノも人格と不可分に結びついている。そして、これはコレクターがあつめたコレクションについても、当てはまるだろう。そして、世間を見ていると、コレクションを捨てられたという体験談は結構よく聞く。この面での、女性の暴力には結構仮借ないものがあるように思う。この大事なものを捨てる=人格を壊すという行為で、粉々に人格を破壊された例としては、鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしいが印象的。
 こういう行為をする女性って、無意識的に家庭内での優位をえるためにやっているんじゃなかろうかと感じる。大体、日本では家の中の空間については妻の側に主導権があるが、まさにそれは人格的な支配権、家庭内での政治的優位をめぐる闘争の一環なのではないだろうか。と、ふと思った。
 つまるところ、暴力というのは、物理的な力だけにとどまる問題ではない。そこが難しい。


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元の小町のトピは削除たようだな。