桜Trick Trick8-A:「桜色のウエディング」/ Trick8-B:「桜色なクリスマス」


 全編を通じて、一番頭おかしい回だと思うw
 春香の親戚の結婚式、父親が出張なので欠席で、代わりに優を誘う。ところが優は自分と春香の結婚式だと誤解して。貸衣装屋で勘違いに気付くと今度はキス連射とか、オカンがブーケゲットとか。
 後半はクリスマス回。みんなで光のアートを見に行くが、春香と優は互いに意識しすぎて、ギクシャク。それを取り持とうとする美月会長の空回りっぷりがすばらしい。あとは、人ごみの中で、二人の世界にはいってキスとか。百合フィールドか。
 エンディングはクリスマスの歌という。

林譲治『太平洋戦争のロジスティクス:日本軍は兵站補給を軽視したか』

 陸海軍の兵站システム全般を解説した本。日本軍の中央から部隊に至る物資補給の概略を知るには便利な書物だと思う。概略から始まって、物資の調達製造保管を担う糧秣廠、陸海軍の経理部門と養成機関、実際の輸送を担う部隊や組織、輸送に使われる各種の機材の紹介。そして、最後に実戦でどのように兵站が運用されたかの実例として、緒戦のマレー半島での作戦と後期のインパール作戦を紹介する。つーか、マレー作戦って兵力が英軍の倍、航空戦力は四倍。普通に勝てる戦だよなあ。あと、マレー作戦に投入された師団が自動車化が進んでいた部隊で、それが快進撃を可能にしたというのも興味深い。兵站の中心は輸送ではなく、それ以前の「計画」であるというのがなるほどと。
 一方で、何度も日本軍が兵站を軽視していたわけではないと主張するが、全体を通読して、重視していたとも言い難いように思った。そもそも、第一次世界大戦後の陸軍のテーマが、総力戦に対応できる軍を建設することだったんだから、急拡張に対応できなかったことというのは、言い訳にならないと思うのだが。経理局が重要な意思決定から排除されていたというのも、その証左ではなかろうか。まあ、緒戦の段階では、常識的なレベルの補給体制を構築していたというのも確かなわけだが。


 以下、メモ:

 一般的なイメージと異なり、兵站補給業務の中心は輸送ではなく計画であり、その意味において輜重兵ではなく軍や師団の経理部こどが兵站補給の担い手なのである。もちろん兵站補給において直接の輸送任務に従事する輜重兵の重要性は変わらない。しかし、それでもやはり兵站補給の中心にいるのは経理部であるのは動かない。なぜならば兵站補給とは、必要な時に、必要な物資を、必要な量だけ、必要とされる場所(部隊)に供給することだからである。時間と種類と量と場所、これらの条件を最適なものとするためにこそ、綿密な計画が必要とされるのである。p.43

 計画こそが業務の中心と。

 ただ陸軍省経理局は予算を主管していたものの、陸軍省内での発言力はそれほど強くはなかった。予算面で本当に発言力があったのは陸軍省で編成や演習などを担当する軍務局であった。純粋な作戦と人事以外の重要事項一切を軍務局が担当したため、経理局といえども予算の中心に及ぼせる影響力は限定的だった。極論すれば、軍務局が決定した予算枠で具体的な実務処理を行うのが経理局だったのだ。p.115

 それって、やっぱり兵站軽視なんじゃ…

 トヨタ自動車工業は、水陸両用車を開発するに当たり、最初はKC型の車体をベースとしていた。水陸両用トラックは船型をしており、水上ではスクリューにより航行した。だが試作実験では上陸時に砂に車輪をとられるなどしたため、ベースとする車体をKCY型に変更し、一応の完成をみた。トヨタ社内ではこれをスキ車と呼んでいたらしい。
 第四陸軍技術研究所は愛知県三河湾西浦で各種の試験を行い、軍用に耐えるものと認められた。同年一一月から翌年九月までの間に一九八台が製造され、陸軍に納入された。
 ただこの特殊車両がどの程度活躍したかは明らかではない。p.194

 日本で開発された水陸両用トラック。198台って、意外とまとまった数が生産されていたんだな。まあ、1943年登場だと、活躍できる場所も限られていただろうけど。

 船の質については、単に設計だけの問題には留まらなかった。第二次戦時標準船以降から顕著になるのは、造船に携わる工員の問題だった。熟練工の召集・入営により、造船所には熟練者が不足していた。このため通常なら技能訓練に三ヶ月から半年を要するが、徴用工や学徒、囚人に一ヶ月の速成教育を施しただけで生産現場に投入するようなことさえ行なわれた。p.242-3

 まあ、それを言うなら、アメリカの戦時標準船建造の現場でも、女性が働いていたそうだけど。自動溶接機械を開発して対応したんだっけ。そこに国力の差があるな。

 日本軍の自動車及び鹵獲自動車の修理・整備を担当したのは第二三野戦自動車廠であった。この部隊は遺棄自動車の燃料タンクからガソリンを抜き取り、それらを集めて前線に補給するようなことも行なった。さらに興味深いのは、廠長の高屋守三郎大佐の行動である。同大佐は、遺棄自動車の走行距離と燃料残量から統計的にイギリス軍の給油場所を割り出し、その付近を捜索することで三〇〇〇‐四〇〇〇本のドラム缶を発見したという。
 先に二七〇〇台以上の鹵獲車両の戦力化と書いたが、実際には遺棄自動車の多くはマレー半島からシンガポールに至る地域に分散しており、その回収作業は容易ではなかった。マレー半島の要地に部隊を駐屯させるほか、移動修理班を編成し、各地を転戦させるなどの作業が行なわれた。これらの作業が終了し、高屋廠長が転出したのは、一九四二年一一月のことであった。p.264

 マレー作戦での自動車修理廠の活躍。

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む [著]角幡唯介 - 最相葉月(ノンフィクションライター) - 本の達人 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト

http://book.asahi.com/ebook/master/2014012200010.html
 メモ。気にはなっているのだが…

マシンツールコレクション

マシンツールコレクション
 三共製作所の静岡工場に保管されている工作機械の紹介。200台前後が収集されているそうで。すごいなあ。
 17世紀の木製工作機械から、20世紀マシニングセンタが出てくる前まで。アメリカ製とイタリア製の機械が多いようだ。19世紀のアメリカ製工作機械も、日本に輸入されて使われていたものなのだろうか。

カオスちゃんねる : 1800年前のエジプト人が書いた手紙の内容が解読される

http://chaos2ch.com/archives/4018207.html
 ローマ軍の兵士が故郷にお返事ちょうだいと書き送った手紙が解読される。ちょっと悲しい…
 実家のほうでは紙が手に入りにくかったのかもしれないが。軍隊の駐屯地だと、軍の事務用に安定供給されていたが、エジプトではそうもいかなかったとか。この時代だと、羊皮紙か。パンノニアパピルスは入手しにくいだろうし。
 2世紀だと、ローマもずいぶん後の方だな。五賢帝の時代が終わって、セウェルス朝の時代か。

「遠洋漁業は経済的損失」、経済学者が禁止を提言 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

www.afpbb.com
「政治的な主張を一切排除した方程式で計算したところ」って時点でダウトだわ。自分に政治性はありませんよーなんていう人間が一番信用できない。しかも、マッキンゼー
 そもそも、沿岸国の経済発展が眼目なのか、環境保護が眼目なのかも分かりにくいな。

武雄市図書館・歴史資料館、文化会館を生み出したもの #武雄市図書館 #たけお問題 - Togetterまとめ

togetter.com

逆に自分達で立ち上がるきっかけや術を根こそぎ奪っていく方向突き進んでいるようにしか見えない。

 まったくそうなんだよな。外部からの資本導入で商業主義的に運営する。結果として、自分たちで文化を作り上げる機運が消失していくと。そして地方は周縁化していく。

NHK NEWS WEB 飛べなかった防災ヘリ 対策を急げ

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_0310.html
 大規模な地震災害の際は、無線とか電話は機能しないと覚悟したほうがいいんだよな。阪神大震災中越地震と、一番被害が酷かった場所は、状況が判明するまでに時間がかかったわけだし。
 広域の災害、特に全国からヘリを集めなければいけないような災害への対応を考えると、衛星電話か小型の無線機を持った偵察部隊をあちこちにばら撒いて、そこから情報を集約する方向で考えたほうがいいと思う。
 複数の機関のヘリコプターの管制に関しては、中央に組織を持って置いたほうがいいんじゃなかろうか。で、必要に応じて派遣する。まあ、日本だと組織のセクショナリズムが強くて、アメリカのように非常時にはものすごく中央集権的になるシステムは難しいのかもしれないが。

NHK NEWS WEB 津波から命と船を守るために

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_0311.html
 1200隻以上が沖出しを試みて、犠牲者が30人未満だから、成功率は結構高いといえそうな気がするが。三陸の場合はともかくとして、南海・中南海地震では、津波がもっと早くくるところもありそうだから、危険度は上がるかな。海上にいるときは沖出し、陸上なら素直に避難がよさそうな。
 あと、青森の試みは、津波が精度高く予測できる場合のみ有効だよなあ。現状では、高精度に予測するのは難しいのではなかろうか。少なくとも、沖出しに資する形では。