前間孝則『技術者たちの敗戦』

技術者たちの敗戦

技術者たちの敗戦

 零戦堀越二郎以下、航空・鉄道・造船・鉄道・自動車の分野で名を残した技術者が、戦前・戦時中にどのような活動を行い、それが敗戦によってどのような変転を強いられたかを描く。もとが雑誌連載だったためか、非常に読みやすかった。この著者が書いた本は大概「重い」のだが、本書はサクサク読める。
 本書を読んで、本当に航空技術者は運命の変転を強いられたのだなと思った。鉄道技術者の島秀雄の活動が、戦中戦後と比較的継続性が強かったことを思うと特に。


 以下、興味深いと思ったところを列挙。
 第一章「三菱零戦設計チームの敗戦」。ここでは、三菱が敗戦後、航空機の技術者を可能な限り温存したり、記録の保存への姿勢が興味深い。このようなエピソードに三菱の地力が現れている。

 東條ら七、八人は、河野部長に「もうここで飛行機は終わりだが、君たちは三菱の飛行機の歴史を書いておけ」と申し渡されて、翌年春頃まで残り、設計部の図面や資料の整理をし、そののち各工場に散っていった。
 こうした混乱のさなか、明日の生活をどうするかで精いっぱいの時期にあっても、「歴史を書いておけ」と命令する姿勢はやはり三菱ならではであろう。(p.20)

には感銘をうけた。


 第三章「戦犯工場のドクター合理化:真藤恒の敗戦」。著者はラドウィックや真藤らを高く評価し、日本の経営システムを「日本の商習慣の限界」「当たり前といえる技術合理性や経済合理性を貫けない日本の企業経営」と批判する。しかし、ラドウィックの手法は高度成長の時代、あるいは長期の景気循環のA局面ならではの手法だと思う。B局面、縮小の時代には、限られた市場のシェアを同業他社と奪い合うことになるわけで、単純にスケールが大きいとは評価できない、被害者もでるだろう。
 B局面の時代には、技術的あるいは経営的な合理性のみではなく、社会的な合意、あるいは社会状況の中での合理性というのも重要になってくるのではないか。
 この章で取り上げられている電電公社の民営化、臨調など、中曽根政権の時代以降、アメリカ・イギリスの新自由主義的改革が一貫して、「改革」のモデルとされている。しかし、良く考えると、イギリスなどは産業革命に先立って、小農民を片っ端から追い出して大土地経営が貫徹してしまう、ある意味経済活動に歯止めがない、ある意味異様な国である。そのような変な国の制度をそのまま取り入れる思考法が、現在の日本の混迷を産んでいるのではないかと常々思っている。


 第四章「なぜ日本の「電探」開発は遅れたのか:緒方研二の敗戦」。日本軍のレーダー開発の混迷。ハードもそうだが、イギリスにしろ、アメリカにしろ、レーダー網とその情報の解析・流通に膨大な人員を投入している。そのようなソフト面がお留守だった日本軍では、レーダーのハード面が進歩しても、使いこなせなかったのではないだろうか。
 また、本書を読んで、結局のところ近代的な高等教育をうけた人間に、戦争が全く支持されていなかったのではないかという感覚が強まった。結局のところ、陸軍・海軍がそれぞれ勝手な戦争を遂行し、官僚はそれを事故の権限拡大に利用した。そして民間人は、口ではともかく、内心ではうんざりしていたのではないか。よく考えると、文民を中心に国家がまとまり、挙国一致体制を本当に構築したアメリカやイギリスが異様なのではないかという気もする。ソ連は別として、他の主要国はここまでまとまれなかった。ドイツの有力者間の内輪もめの酷さときたら。