斎藤了文『テクノリテラシーとは何か:巨大事故を読む技術』

テクノリテラシーとは何か (講談社選書メチエ)

テクノリテラシーとは何か (講談社選書メチエ)

 とりあえず通読したが、内容はよく理解していなかったり。倫理とかそっち方面の話は全然しらないから。あと、タイトルと内容が微妙にずれている感じが。あんまり「テクノリテラシー」についての議論がないような気がする。
 各種の工業製品は多数の部品や考慮する要素がある複雑系の物であること。エンジニアは生産された物を媒介にして多数に人々と関係するため通常の倫理とは別の問題が発生する。多数の人間が関わるなかで、意図しない自体が発生し、それがエンジニアの責任になってくる。そのような倫理の問題。さらに、安全を守るための社会制度や人間観などの観点。それらから、実際の事故の事例を検討している。ただ、それぞれの事例研究に違った視点からアプローチしているために、本書の議論が散漫になってしまったように見える。
 具体的な事例としては、新しい人工物が生まれる時としてコメットとサリドマイドの事例。人工物の成熟期としてフォード・ピント、スリーマイル島、慈恵医大青戸病院事件、牛肉偽装、みずほ銀行のシステムトラブルが、人工物の衰退期として新幹線のトンネル崩落事故とボパールの化学工場の事例が取り上げられている。
 個人的には、ピント車追突事故を題材にした生産物のリコール問題から見える欠陥概念の拡張とその背後にある人間観の変化というのが興味深い。自立した人間からミスをする人間という考え方へ。「人間の行動を何の制限もない自由をもとにして考えるのではなく、パターナリスティックに考える」という思想の変更。
 あと、慈恵医大青戸病院の医療事故から医療事故の問題に関して議論されている。ネット上での医療事故の問題に関する議論を見ていた身としては、物足りないような気がする。青戸病院の事例は安全への配慮が明らかに不十分だったと思えるが、これについても議論があるようだし→慈恵医大青戸病院事件

 スリーマイル島原発事故を起こしたメトロポリタン・エジソン社は、この事故の発生から数時間、数日間が過ぎても、事故の情報を流さなかった。さらに、放射性微粒子が大気に漏れ出していることも認識していたらしいが、公表しなかった。また、原子力規制委員会(NRC)の職員が、事故の深刻さがメディアにもすでに表面化しつつあったにもかかわらず、「楽観的語調」を採用していた。このため、メトロポリタン・エジソン社もNRCも信用が損なわれ、原子力推進派と大衆の関係は大きな打撃を受けたという。p.119-120

 事故に由来する規制や研究はそれなりに効果を上げているようだが、原発に関する情報隠しについては、失敗から学ぶことはなかなかおこなわれていない、ミスは過失であっても、情報隠しは意図的行為であって、問題は大きい。また、たいていの規制強化は事故が起こってからの泥縄式の対策であり、これだけの対策では安全性は向上しても、完全とはいえない。しかし、飛行機や自動車でも同様なように、原発を使っていく(もちろん、廃炉の過程でもさまざまなリスクがありうる)かぎりは、科学技術による、さらには社会技術による段階的な安全性の向上をめざすしかない。p.120

 ちなみに、絶対安全を標榜してきたために、日本の原発では長い間市町村を含めた防災訓練をおこなえなかったが、この頃ようやく防災訓練がおこなわれるようになっている。地震や水害を含めた避難訓練は最後の手段として大きな意味をもつ。p.226

 リスク管理は、事故を起こさないことをめざすのも当然重要だが、問題が起きたときに被害が拡大しない仕組みをつくることも必要だった。すると、危ないという可能性を示唆することもダメという状況は、じつは大きな危険をはらんでいることがわかる。リコール隠しをしていると、大っぴらに修理もできない。絶対安全を標榜していると、原発の小さなトラブルを隠したくなる。このような風土でのプラントの安全な操業は難しさをはらむことになる。p.231

 原発に関連した記述をいくつか。人間変わらないものだなとしか言いようがない。しまいにゃ、絶対安全を標榜するために、津波リスクを過小評価するなんて、倒錯が起きてしまう訳で。

 最後に、管理に関わる奇妙な倫理問題が残る。知識の継承にせよ、変更管理にせよ、このような管理の責任は誰にあるのか。多国籍企業であったユニオン・カーバイド本社なのか、インドの子会社なのか。また、社長なのか。工場長なのか。社長だとしても、設計時の社長か、どの時点のメンテナンスをやらせていた社長か。事故時の社長か。人間というよりも法人が責任を担うのか。
 一般に、会社(法人)はどのような行為者かという問題が提出されている。さらに、法人は自然人とちがって合併できる。また、工場を売却できる。法人の同一性に疑問が投げかけられるなかでの管理責任は、考察すべき倫理問題を提供する。p.237

 JR福知山線脱線事故関連で逮捕されたJR西日本の歴代社長なんかも、同様の問題だな。問題の根が深いほど、その問題が醸成された時間は長くなり、関係者が増える。