柳田邦男編『阪神・淡路大震災10年:新しい市民社会のために』

阪神・淡路大震災10年―新しい市民社会のために (岩波新書)

阪神・淡路大震災10年―新しい市民社会のために (岩波新書)

 阪神・淡路大震災からの復興を災害弱者や新たな人のつながりといった観点から整理している。長田区なんかの特に被害が酷かった地域で、元の居住者の帰還が進んでいない状況を考えると、復興は失敗したと理解するべきなのではないかと思う。東日本大震災の被災地も、現状水に浸かっているとか、高潮被害の懸念があるという場所を除けば、とりあえず一度、可能な限り早く、元の土地に戻す必要があるのではないだろうか。「災害に強い都市」をつくるにしても、地域社会が消滅してしまえば、魂を入れない仏像ではないのか。
 あと、根本的な部分で、災害対策をめぐる制度が進歩していなかったのではないかとも。東日本大震災が、広域災害であるということを割り引いたとしても。被災範囲が非常に広く、仮設住宅の供給に限界があるとはいえ、中越地震で実践されたコミュニティー単位での入居ってのもできていないし、機能が低下した自治体をバックアップすることもできていない。制度面でも、今回の問題を検証して、組み直す必要があるのではないか。阪神・淡路大震災直後は、日本版FEMAをつくる必要性が指摘されていたが、結局、そういう意見もしりすぼみに消えていったな。
 内容としては、災害弱者の復興状況を中心にした第一章、それ以降は、神戸で試みられた市民の協働の動き。ボランティアネットワークやコミュニティビジネス、人とつながる住まい方、外国人のネットワークなどが取り上げられている。地域の資源を利用しての復興や新たな人のネットワークなどは、東日本大震災でも有用な考え方だと思う。


 以下、メモ:

災害弱者の視点の欠落
 下村さんとの出会いは、この国が災害に襲われると何が起きるかについて、次のようなことを浮かび上がらせてくれた。

  1. 現代の日本の社会は、高齢者を中心とする災害弱者が災害の犠牲になりやすい構造になっていて、その傾向はこれからますます強まること。
  2. 災害弱者は、生活基盤の住まいやまちが破壊されると、身体的にも精神的にも経済的にもダメージが大きく、自力で生活し人生をたて直していくのが困難になること。
  3. これに対し災害弱者に焦点を合わせた避難・救済・生活再建支援・心のケア支援などの社会的体制がつくられていないこと。災害弱者対策というものが、従来の防災計画のなかでは、重要な課題だという発想が欠落していた。
  4. 仮設住宅の設計・建設の思想が、応急の対策であるにしても、短くて一年、長ければ4-5年はそこに住まざるを得ない事情を考えると、荒涼とした敷地、収容所のようなプレハブ長屋の密集、交通の便の悪さ、アメニティ環境の欠落といった条件は、入居者には日々の生活上も精神的にも苛酷であること。
  5. 人間にとって、住み慣れたまちや村、からだにしみついた風景というものが、心の安定と生きていくのを支える条件として、いかに重要であるかということ。
  6. 同時に、家族や地域のひとのつながりと支え合いもまた、いかに重要であるかということ。とくに災害弱者はひとりでは生きられないのだということ。
  7. 以上のような悪条件のなかで、災害弱者を支えたボランティアの人びとが果たした役割は、極めて大きかったこと。p.8-9

 特に2と6。環境変化への適応力が低い人々にどうケアを行うか。東日本大震災でも、高齢者や障害者が、避難所などでなくなる事例が指摘されているし。

 いずれであるにせよ、生きる支えの喪失と仮設住宅での孤独な日々という精神的なストレスが、疾患の発症や重篤化の要因となり、被災者の心身を圧し潰す作用を果たしたことは確かだ。そのことは、孤独死した人びとの平均年齢をみると、よくわかる。六十人のうち、男の平均年齢は五十八・九歳、女の平均年齢は七十一・九歳となっている。とくに男の五十八・九歳は、いかにも若すぎる。あの下村清吉さんは、死亡時まさに五十九歳だった。震災によって家や財産を失い、住み慣れたまちも消滅し、気楽に声をかけ合うひともいない環境の中で孤独な生活を余儀なくされたとき、ひとはよほど内面的な生活を豊かにしないかぎり、一気に十歳くらい老けてしまうのではないか。私はそう思う。p.13-4

 父方、母方、両方の祖父とも、デイケアなんかで人のつながりをつくれなかったのを見ると、男性はアドホックな人間関係をつくるのが苦手なのではないのかなと思った。さっと、群れをつくれない。いったん社会関係が破壊されると、立ち直れない。そういう部分が、孤独死の平均年齢に現れているように思った。

医療支援に参加したひとたちが一致して口にしたのは、今後大災害が起きたときには、現地の医療機関と支援の医療者たちの行動とを統括して采配を執るヘッドクオーターの設置を定番化すべきではないかということだった。p.42-3

 このあたりは、東日本大震災ではそれなりに機能したように見えるが。報道を見る限り。

住宅は建ったが……ひと戻らず
 たしかに被災地十市十町の人口は、十年目に入り震災直前の人口を二万八千人上回る三百六十一万人までに回復した。一時は約百五十万人の人口が十万人近く減少した神戸市も十年目でほぼ震災前の水準に回復した。だが、人口動向を詳細にみてみると、被害の大きかった神戸市長田区は震災前の八一%にとどまっており、須磨区兵庫区も九〇%前後の水準にとどまっている。朝日新聞が被害のひどかった神戸市の中央六区と西宮、芦屋両市の人口動向を町丁ごとに調べてみたところ、建物の全壊率が一〇%を超え再開発や区画整理事業がおこなわれた地区の人口は軒並み、震災前の八割にとどまっているという(2004年1月17日付け)。p.52-3

 被災地全体で計画された土地区画整理事業は、十年目に入った時点で四市一町十八地区のうち十地区で仮換地指定が完了した。三市の十四事業地区でおこなわれていた市街地再開発事業は、最も大規模な新長田地区を除き完了した。だが、区画整理は土地の基盤を整備したにすぎないため、建物が建ってひとが戻ってこなければ人口もまちも回復しない。区画整理地区全体では、人口回復率は八割足らずにとどまっている。最も低い長田区の御菅東地区では“帰還率”は五〇%にも満たない。p.66

 実は災害復旧時の区画整理事業って有害なんじゃ。地価上昇時はともかくとして、都市が成熟した状態では、区画整理事業は地域住民の生活、特に商店を破壊する効果の方が大きいのではないだろうか。東日本大震災でも、災害に強い都市とかいって、区画整理をやる気満々だけど、実際には、地域社会の復興を遅らせるだけなんじゃないだろうか。

 震災で被害のひどかった地域は、再開発や区画整理事業の網がかぶせられて、まち全体がスクラップ・ビルドされた。道路が広げられ、広い公園が随所に生まれた。再建された建物からは低層の長屋住宅や木造アパートがすっかり姿を消し、高層の共同住宅がにょきにょきと天を突いた。戸建住宅も平屋や二階建てではなく、区画整理で狭くなった敷地に対応した三階建てが目立つ。路地裏がなくなり、玄関横に小さな駐車スペースが付いた。緑の少ないまち並みが多くなった。大きな敷地に庭木が茂っていたお屋敷が分割され、マンションや小さな戸建て住宅に変わった。
 大規模な都市計画事業が行われたところでは、一定の基準にもとづいて防災上必要な道路幅や防災・避難公園が整備された。震災前、密集していたまち並みに比べると、空間が広くなり、「乾いたまち並み」が多くなったのは否めない。地面にはいつくなうようにしがみついていた下町の住民は、“縦割り長屋”とも称される中高層の公営住宅に移った。p.65-6

 ある程度道が狭くて、車が入ってこない方が、住む上では快適なんだよな。狭い道が車の抜け道になると最悪。

住宅再建への公的支援の壁
 災害が起きて家屋が壊れてしまった場合に、速やかに自宅を再建できるような資金対策は重要な課題になった。震災から一年を迎えたころから、被災者の住宅再建に対する公的支援の要求が全国的に盛り上がった。全国生協連や連合、全労済兵庫県などがスクラムを組んで、全国で二千五百万人の署名を政府と国会に届けた。当時の全国的な署名では、史上最大規模だった。地方議会などでの決議も相次いだ。
 被災者の生活再建への公的支援は復興前半の最大の課題になり、市民が発議し議員と連携して立法化を図る「市民=議員立法」などの市民運動のうねりとなった。1998年になって議員立法で被災者生活再建支援法が成立したが、住宅再建に対する援助は見送られ、付帯事項で見直し課題とされた。政府の「住宅という個人資産に対して直接公的資金は出せない」という壁に阻まれたが、問われたのは「住宅は個人資産か」ということだった。人間が最低限度の文化的生活を営んでいくためには「住居は人権である」という国連機関の定義が通らないこの国の後進性が問われたといえる。p.78-9

 日本の不動産市場を見ていると、土地はともかくとして、建物は耐久消費財だと思うのだが。

 「被災者の心の復興は二極分化している」と、朝日新聞は2003年末の復興公営住宅の被災者調査結果を報じた。1997年から追跡調査している五百世帯を対象にしたものである。一方のグループは「自治会に入っている」(78%)、「新しい友人ができた」(65%)、「震災後に旅行したことがある」(55%)など自分の生活を取り戻しつつあるひとたちで、「大坂や神戸の繁華街に月一回以上買い物に行く」ひとが半数に達し、八割が「ずっと住み続けたい」という。半面、もうひとつのグループは「新たな友人ができない」「旅行をしたことがない」「繁華街へ買い物に行かない」など、交流や外出が極端に少ないひとも三割から四割台もいる。地域活動に一切参加していないひとは15%もいた。
 被災者も、まちの様相も一様ではない。表から見える復興の状況と、一歩踏み込んでのぞいたまちの人びとの状況はがらりと異なる。p.84-5


 フォーラムは三十余りの分科会が同時進行でおこなわれた二日間の日程を終えた後、実行委員など二十数名の中心メンバーが徹夜で侃侃諤諤の議論を重ねてまとめた「神戸宣言」を最終日の午後に採択した。この年の第一回フォーラムの基本テーマは「くらし再建へ『いま』を見すえて」だった。フォーラムは「語りだす」「学ぶ」「つながる」「つくる」「決める」の五つのキーワードを被災者の行動の基本として、次の三つの基本姿勢を明らかにした。

  1. 復興の主体は被災者地震であり、身の丈に合ったまちをつくる
  2. 住居の再建がくらしを立て直す基本であり、その実現のため国は住宅再建に必要な資金を保証する
  3. 生活を継続するため、仕事や職場の確保などきめ細かな対応が必要である

 このキーワードと基本姿勢は、新しい市民社会の形成に努力することと、復興への道を力強く歩むことは同じテーマであることを確認し「自分のことを決めるのは自分である」という姿勢を宣言したものでもあった。p.104-5

 1995年12月に行われた「市民とNGOの『防災』国際フォーラム」の宣言。この基本姿勢は重要だと思う。

 避難所の認定、仮設住宅の建設にあたっての行政のメニューはひとつしか用意されていなかった。避難所から待機所、仮設住宅から恒久住宅と呼ばれる公営住宅への一本の道んを、約四万三千世帯が五年間にわたって放浪していった。「もっと多彩なメニューがある。人びとの暮らしの状況やスタイルが多様であるように、復興の筋道も多様であっていいはずだ」という声が市民の間から起こってきた。p.163


 1995年2月に神戸市中央区の山手にある中華同文学校を訪ねたとき、林同春神戸華僑総会会長(現名誉会長)は、神戸市が同文学校を避難所と認めず救援物資の配布を断ったいきさつを話したあと、おだやかな語り口ではあったが「私たちは市民として認められていないのですか」とぴしりと言った。同文学校には華僑だけではなく、周辺の日本人家族も避難していたが、神戸市は外国人学校各種学校であるから避難所に認定できない、と言ってきたのだ。その後、認定されたが、70年近く日本で暮らしてきた林さんは、定住外国人の社会的存在を否定された、と思った。p.188

 外国人差別の問題。関東大震災の時のような先鋭化した形ではなかったが、かなりいろいろと問題があったようだ。