青山和夫『古代メソアメリカ文明:マヤ・テオティワカン・アステカ』

 中米地域に展開した先住民の諸文明を解説した入門書。とりあえず自分が全然分かっていなかったことが分かった。基本的には、ユカタン半島から南の太平洋沿岸ではマヤ文明が展開、一方、メキシコ中央高地ではテオティワカン→トルテカ→アステカと興亡を繰り返す。並列関係にあったと理解すべきなのだろう。マヤ文明は、中米に文明が展開した前400年からスペイン人が侵略を行った16世紀までの全期間、そのの伝統を引き継ぐ都市が存在し続けた。初期に繁栄の中心だった南部マヤ低地の一部の都市が9世紀に衰退するが、全体では文明は存続しつづけた。メキシコ中央高地では諸文明が興亡を繰り返し、その南のオアハカ盆地ではサポテカ文明→ミシュテカ文明がといった具合に、それぞれの地域で独自の文明が存在し続け、単一の政治体に統合されることはなかった。支配層は、近隣から遠隔地まで、支配層同士で交流・交易を行い、それによって中米地域の諸文明は相互に影響を与えあった。
 ところで、本書はあとがきによれば「高校生にもわかる文章」を心がけて書かれたそうだが、失礼ながら結構難しいのではないかと思った。文章そのものは平易なのだが、やはり紀元前1800年から後1500年までの3000年以上の期間に展開した諸文明の歴史を、選書一冊に圧縮するのは無理があったのではないだろうか。固有名詞が怒涛の如く流れてくるのは、ちょっとつらいものが。本来なら、何巻かに分けて書くべき情報量だったと思う。あと、可能な限り充実させたのだろうけど、もっと地図や写真が欲しかったところ。良くできた概説書だとは思うのだけれど。
 あとは、最高度に発展した石器文明であるとか、古典期までの諸文明では、支配層が貴族にして、書記、工人、天文学者、戦士であるというのが興味深い。石器で石に彫刻を刻むというのは、どのような技術であったのだろうか。あと「非大河灌漑文明」と強調しているが、灌漑活動そのものはかなり高度に行われていたわけで、あまり強調しすぎるのはどうなのだろうか。


 序章、第一章で全体の概説、第二章は最初の文明であるオルメカ文明、続いてマヤ文明サポテカ文明、で後半は時系列にメキシコ盆地の文明をテオティワカン、トルテカ、アステカの順番に紹介している。最後は、これらの文明の文化的伝統が現在に繋がることを指摘している。近年の南米の政治動向では、「先住民」の支持が選挙で重要な意味を持っているが、その「先住民」がどんな存在か、曖昧なイメージが一部整理された。


 以下、メモ:

 マス・メディアのなかには、「マヤ文明=宇宙人起源説」やそれに類似した興味本位の言説まで流布するものもある。そうした番組や記事の作り手にとっては、古代メソアメリカ文明を未知・謎のままにしておきたいようで、科学的に解明されてしまうと困るのかもしれない。「宇宙人や旧大陸古代文明が、メソアメリカに文明をもたらした」という誤った言説の根底にあるのは、「中米の先住民は独自に高文明を発展できない」という権力格差や人種偏見に根差した歴史観である。このような偏見に満ちた言説の生産と消費は、先住民たちの豊かな歴史・文化伝統にたいする侮辱以外のなにものでもない。そして、多くの日本人にとってまだ親近感の薄い、メソアメリカの歴史・文化伝統の正確な理解を妨げ歪めている。p.15

 アメリカ大陸の諸文明が宇宙人起源なら、ユーラシアの諸文明も宇宙人起源でないと辻褄が合わないわな。つーか、基本的に超古代文明ネタは白人中心主義的な人種偏見に基づいているよな。グラハム・ハンコックなんかを見ても、大概使うネタは一緒だし…

 知識や観念も、遠距離交換網を通して共有された。たとえば、絵文書は、樹皮製紙、鹿皮や綿布に、図像や文字を描いた多彩色の文書である。アコーディオンのような折りたたみ式が多い。16世紀のスペイン人は、その大部分を「悪魔の仕業」として焚書にした。古典期マヤ文明の王墓から出土した判読不能な絵文書の破片の他に、15冊の古典期の絵文書と500点以上の植民地時代の絵文書が現存する。後古典期の絵文書としては、マヤ文明の4冊、ミシュテカ文明のオアハカ地方で描かれた『ナットール絵文書』、メキシコ中央高地で描かれたとされる『ボルジア絵文書』などがあるが、後古典期のアステカ文明による確実な絵文書は残っていない。p.41

 この時代のスペイン人ってのは吐き気がするほど野蛮だな。他の土地の人間を野蛮人呼ばわりする資格はないレベル。鄭和の航海の記録を焼き払ったのと同レベルの暴挙だな。

 先古典期のマヤ文明が発展した他の要因としては、宗教や価値観をふくむ観念体系の変化が挙げられよう。ナクベ、エル・ミラドール、ワクナ、ティンタル、ティカル、ワシャクトゥン、シバル、ラマナイ、セロス、ヤシュナなどの先古典期後期の大神殿ピラミッドは、中央に主神殿、その両側により小さな神殿の計三つの神殿を基壇の上に頂くという文化要素を共有した。こうした巨大な神殿ピラミッドの階段の両脇の外壁を飾る神々の顔の多彩色の漆喰彫刻は、王権の象徴ともなる宗教観念の表現として重要であった。たとえば、シバルの「神殿一」の外壁は、三×五メートルの太陽神の顔の多彩色の漆喰彫刻で装飾された。巨大な神殿ピラミッドの建設・維持は、王の強制力によってのみなされたのではなく、マヤ文明形成の要因の一つとして、巨大な宗教建造物の必要性を人びとに納得させる主権や宗教などの新しい観念体系の発達があったと考えられる。文明発達のごく初期に最大のピラミッドが建造されて点において、メソアメリカとエジプトで共通点が見られる。p.98

 王権のイデオロギーの発生。人々が進んで参加してこそ、国とか統治とかは可能になるわけで。

 先スペイン期を通してマヤ地域はおろか、マヤ低地が政治的に統一されることはなかった。複数の広域国家が形成された時期と、数多くの小都市国家が林立した時期とがくりかえされたのである(図41)。マヤ低地だけで、その面積は39万平方キロメートルもある。輸送・移動手段の技術的限界、高地の激しい起伏や熱帯雨林低地のジャングルなどが交通の障害となったこと、さらにマヤ文明の言語・民族・生態環境の多様性、文化的な大きな地域差を考慮に入れれば、政治的に統一することは困難だったのだろう。p.101-2

 東南アジアなんかの熱帯雨林地域では、確かに広域国家はできていないから、多様性は大きな要因なんだろうな。馬をはじめとする騎乗動物の欠如も、メソアメリカの文明が散在的な性質をもたらした大きな原因だろう。特に、比較的乾燥したメキシコ中央高地あたりであれば、政治的統一に大きな要素となったと思う。

 以前は、一様に農業に適さないマヤ低地において、トウモロコシを主作物とする焼畑農業だけがおこなわれた、と誤解されていた。その後の調査によって、主に熱帯雨林に覆われたマヤ低地南部では、小さな区画ごとに変化に富むモザイク状の生態環境を利用して、焼畑農業と集約農業を組み合わせてさまざまな作物を生産したことが明らかになった。集約農業としては、主に中小河川、沼沢地や湧き水を利用した灌漑農業、段々畑、家庭菜園などがあった。農業が中央集権的に管理された証拠は少ないものの、カラコルやパレンケでは国家が集約農耕地を運営していた。p.109

 今でも、かつて集約的に管理された農地は高い生産性をもっているとか、そんな話をどこかで読んだんだけど、どこで読んだか思い出せない…

 研究の成果としては、第一に、発掘されたすべての支配層住居跡から、美術品および実用品の半専業生産の証拠が見つかり、王家の人びとおよび高い地位の宮廷人をふくむアグアテカ支配層のあいだで、手工業生産が広くおこなわれていたことが明らかになった。男性の支配層書記は、石碑の彫刻や、貝・骨製装飾品や王権の宝器のような美術品の製作をおこなった。支配層の女性も、調理だけでなく、織物や他の手工業生産に半専業で従事した。熟練した支配層工人が生産した、石彫、多彩色土器、貝・骨製品、織物などの美術品は価値が高く、製作活動自体が超自然的な意味を包含したと考えられる。こうした洗練された美術品の製作は、知識教養階層の王族・貴族と被支配層との地位の差異を拡大し、宮廷における権力争いでも重要な役割を果たした政治的道具であったといえよう。p.115-6
 第二に、王および支配層書記を兼ねる工芸家は、戦士でもあった。支配層の住居跡から、30-400点の石槍が出土した。大部分の石槍は破損しており、支配層住居の内外の最終居住面に散在していた。これらの武器が、戦闘の結果、堆積したことを示唆する。いっぽう、農民の住居跡やアグアテカの周辺遺跡では、武器や戦争の他の証拠は少ない。アグアテカ地域における古典期後期末の戦争は、主に支配層間の争いだったのである。
 第三に、アグアテカ遺跡出土の石器のデータは、古典期のマヤ支配層を構成した書記を兼ねる工芸家が複数の社会的役割を担っていたとする、猪俣の仮説を支持する。一部の書記を兼ねる工芸家は戦士でもあった。同一人物が書記であると同時に、石器、木製品、貝・骨製品といった手工業品を生産し、あるいは石碑の彫刻に従事し、戦争、天文観測、暦の計算、他の行政・宗教的な業務といった多種多様な活動に住居の内外で従事したのである。さらに支配層の女性は調理だけでなく、古典期マヤ文明を構成したさまざまな美術品や工芸品の生産の一翼を担った。古典期のマヤ支配層を構成したアグアテカの男性と女性の工芸家は、異なった状況や必要性に柔軟に対応して複数の社会的役割を有したのである。p.115-7

 メモ。マヤの支配層の職能。忙しそうだな。後の時代になるが、アステカあたりでは工芸家は必ずしも支配層ではなくなったようだが。

環境破壊と戦争
 現在のところ、マヤ低地南部の古典期マヤ文明衰退の直接的な要因としてもっとも重要視されているのは、1人口過剰と農耕による環境破壊と2王朝内および王朝間の戦争という内的要因である。もっとも詳細に衰退の過程が復元されているのが、グアテマラのペテシュバトゥン地域とホンジュラスのコパン谷である。前者では、八世紀中頃から戦争が激化した。しかし、湖底堆積層の花粉分析によれば環境が悪化した証拠はなく、人骨の分析によれば健康状態や栄養の悪化もみられない。要塞都市アグアテカは、八世紀後半に全盛期を誇ったが、810年頃の敵襲によって、王や貴族が住んだ都市中心部が徹底的に破壊され、短時間に放棄された。さらにアグアテカ遺跡の長大な防御壁、戦争に関連する碑文や図像資料、住居跡から出土した使用済みの大量の武器兼加工具の存在は、戦争がアグアテカにおける古典期マヤ文明の衰退の直接の原因であったことを強く示す。敵がアグアテカを占領しつづけることはなく、都市周辺部に住んだ農民もその後まもなく他の場所に移住し、アグアテカは九世紀初頭に無人化した。戦争の目的は、王朝や貴族を服従させるためでも、都市を占領するためでもなかった。それはまさにアグアテカ王朝と貴族の権力・権威を抹消するための、主に支配層間のきわめて破壊的な戦争だったのである。
 コパン谷では、738年に13代目王がキリグア王に捕獲・殺害されてから、王朝の権威が失墜しはじめた。14代目王(738-749年統治)は、石碑をまったく建立できなかった。八世紀中頃のコパン谷には二万人を超える人口があったと推定されており、人口超過の状態にあった。古人骨の病理学研究によると、農民だけでなく貴族の多くも栄養不良に陥り、病気であったことがわかっている。八世紀後半には、都市人口が減少しはじめた。コパン谷の花粉分析の結果、800年頃までには宅地と農地、薪採集のために大部分の森林が伐採されて、周囲の山々が禿山になっていたことが判明した。漆喰は、薪を燃料として石灰岩をゆっくりと焼いて製作され、建造物の外壁や広場に塗られた。都市を建設・維持するうえで、大量の漆喰が必要とされ、森林の伐採が助長されたのである。
 15代目王が753年に完成させた「神殿26」は、2200以上のマヤ文字によってコパン王朝史が刻まれた「神聖文字の階段」を有する(図54)。これは、先スペイン期のアメリカ大陸で最大・最長の石造文字資料である。しかし、その壮麗な外観とは裏腹に、この神殿ピラミッドをはじめ、15代目王と16代目王の治世中の建造物は、乾燥した土と石を詰めただけのきわめた脆いものであった。このことは、八世紀後半の王権の弱体化と都市人口の減少による労働力の低下を強く示唆する。私の研究によれば、コパンでは、古典期後期末に黒曜石製石槍と弓矢の生産が増加した明確な証拠がある。さらに、コパン都市中心部のさまざまな建造物には、火災や破壊の証拠が存在する。こうした状況証拠は、コパン王朝と貴族たちの抗争といったコパン谷内の集団間、または外部集団との戦争、あるいは両方によって王権が衰退した可能性を示唆する。
 ペテシュバトゥン地域では環境破壊の証拠はなく、戦争が古典期マヤ文明衰退の直接の原因であった。いっぽうで古典期後期のコパン谷では、人口過剰と農耕による環境破壊をはじめとする他の要因が本質的にあり、それが原因となって戦争が激化して古典期マヤ文明が衰退したといえよう。古典期マヤ文明の衰退の要因は地域によって異なったのであり、地道な事例研究を積み重ねて行くことが重要である。p.124-6

 9世紀前後の「マヤ文明の衰退」の要因。

 テオティワカンの支配層は、文字体系を発達させたマヤ人やサポテカ人の支配層と直接に交流していた。にもかかわらず、テオティワカンでは、現在までに、地名、神の名前、暦など120くらいしか文字が確認されておらず、王朝史は記録されなかった。西洋人は、伝統的に文明の条件として文字を重視し、無文字社会を未開社会と呼んだ。しかし、テオティワカン人は、旧大陸の「四大文明」やマヤ文明と異なり、複雑な文字体系の恩恵なしに、古典期の南北アメリカ大陸で最大の都市を発展させたのである。テオティワカン公用語は不明だが、トトナカ語、ナワ語(ナワト語と後のアステカ王国公用語ナワトル語がふくまれる)などが候補である。古典期のメソアメリカ唯一無二の国際都市テオティワカンでは、さまざまな言語が飛び交っていたことはまちがいない。p.155

 おもしろい。都市計画や中央集権を特色とする文明が、文字をほとんど使っていなかったというパラドックス

モクテスマ二世王が、10世紀にトゥーラを追放された、トピルツィン・ケツァルコアトル王の一行が「一の葦」の年にあたる1519年に帰還するという「神話」を信じて、コルテスを神格化したケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇神)の再臨と勘違いしたともいう。これに対して、フロリダ大学のS・ジレスピーは、民族史料を詳細に検討して、アステカ人の王族・貴族が、屈辱的な敗北を正当化するために、「神話」を捏造したことを明らかにしている。p.242-3

 うーむ。まあ、ありがちなことではあるのだが…

 熱帯のジャングルは、スペイン人には住むのが困難な、「野蛮」で危険きわまりない場所であった。グアテマラのタヤサルは、マヤ低地南部の熱帯雨林に守られ、後古典期・植民地時代のイツァ・マヤ人の都市として発展しつづけた。イツァ・マヤ人は、スペイン植民地政府から隔絶していたのではなく、植民都市を行き来し、多くの情報を熟知していた。タヤサルは、コロンブスの航海からじつに200年以上を経た、1697年にスペイン人に侵略・破壊されるまで独立を保った。メソアメリカ文明で最後の都市だったのである。p.245

 ずいぶん後々まで、独立を保った都市があったという話。すごいな。