早島大祐『足軽の誕生:室町時代の光と影』

足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)

足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)

 非常に話の流れが分かりやすくて、サクサクと読める本。「足軽」という集団が、室町社会の中でどのように形成されてきたかを追及している。
 第一章は「首都」としての京都の誕生。室町幕府の成立のよって、京都に公家武家の権力者が集中するようになったこと。さらに、「守護」の在地での支配力が強くなる一方で、守護本人は京都で幕府の政務などもになう必要があり、結果として京都と各地の交通が緊密化したこと。公家や寺社などの荘園領主も、守護やその関係者に荘園の支配や年貢の収納を委託し、京都への輸送を守護の交通輸送ネットワークに依存するようになった。
 また、同時期に京都周辺の荘園の中上級層が幕閣有力勢力の傘下に入り、被官になる状況が進む。また、各地の守護家の内紛や足利義教暗殺後幼少の将軍管領の時代が続く状況のなか、地域の有力な家が幕府の有力者と直接結び付く状況が出現し、より広範な人々が、幕府内部の動向に直接結び付くようになった。
 このような状況の中、地域内の紛争で敗れた勢力や足利義教を暗殺して改易された赤松家などの敗れた勢力が、被官やその他の人間関係を利用して京都に流れ込み、京都は「牢人都市」の様相を呈すようになった。
 さらに幼年の将軍や管領、有力守護家が内紛や被官関係のネットワークによって土一揆対策に動けない状況といった統治システムが行き詰る状況で、足利義政の将軍就任を成功させるなど政権の中枢を担った伊勢貞親や復興なった赤松家などは牢人や周縁的な人々を軍隊や様々な役人に登用。これが、足軽につながったというストーリーを描いている。
 牢人と室町幕府の政治過程、京都が様々な「縁」によってつながった人々で形成された「有縁都市」という指摘が興味深い。

 以下、在京する守護関係者の拠点を武家宿所と呼ぶことにするが、この武家宿所は領国と京都を結ぶ都鄙交流の拠点だった。しかしそれにとどまらず、室町中期までには没落人が滞留する場とも化していた。そしておそらくそこでは大酒で死去した筒井の事例からうかがえるように、酒が酌み交わされ、都市社会での不安要素ともなっていたに相違ない。
 また、真板の例も参看すると、没落人は在地社会への環住の機会を常にうかがい、ときに現地の人間とも接触も維持していたから、都市内部だけでなく、在地社会にとっても潜在的な脅威だった。室町期の大名や公家の館は、侍所などの警察権が及ばない場所で一種の治外法権地だったから、このような状況も背景にして、中世後期社会の諸問題が、京の武家宿所へ沈殿し、騒擾の因子として蓄積されていた。京の武家宿所は、いわば、この時期の社会の光と影が交錯する場でもあったのである。p.103-4

 かつて網野善彦氏は、都市は無縁の場から生まれると主張していたが、一方で平安京以来の伝統を有する室町時代の京都は、既得権益のかたまりの、有縁の都市だった。そのためによそものが京都に流れ込み、定着することは、室町以前の京都ではなかなかに困難だったのである。p.109