亀田俊和編『初期室町幕府研究の最前線:ここまでわかった南北朝期の幕府体制』

 洋泉社の「最前線」シリーズも、とりあえずここで一通り終了。買ったのと、借りたので、一応全部読んだのかな。
 今回は、南北朝室町幕府初期。観応の擾乱の時期から、足利義満の治世あたりまでと、割と広い時代を扱っている。他のシリーズと比べても、雑多感が際立つ。いや、こうやって読むと、知っているようで全然知らないことばっかりだなあ。
 中世政治法制史の泰斗、佐藤進一の「好み」が、研究動向に大きな影響を与えるというのがおもしろい。


 全体の構成は、第一部「初期室町幕府の政治体制」、第二部「有力守護および地方統治機関」、第三部「室町殿・足利義満の位置づけ」、第四部「初期室町幕府の寺院・宗教政策」に四部で、14編。
 後半は、足利義満メインといった感じ。

呉座勇一「初期室町幕府には、確固たる軍事制度があったか?」

 入り乱れて戦うこの時代に、制度的にきっちりとした仕組みがあったと想定するのが無理だよなあ。指揮を受ける側も、都合の良いルートを選んで、恩賞に預かろうとするだろうし。
 足利一門の大将と地元出身の守護が組み合わされた「守護・大将併置制度」や「二重証判制度」は、流動的な戦闘状況ではあり得ない。室津軍議の時には、足利勢の敗走の中で、信頼できる後衛部隊が一門の部将であった。他の場合、基本的には「大将」の派遣は、守護では対応できない事態に、それ以上のレベルで対応するためであった。
 恩賞は自分から申請して得られるものだから、それぞれの武士が、より将軍と近い回路である一門に殺到した結果に過ぎない、と。

亀田俊和足利尊氏・直義の『二頭政治論』を再検討する」

 佐藤進一が提唱した尊氏が「主従制的支配権」、直義が「統治権的支配権」と、兄弟で支配権を分割したという考えが、それほどクリアカットできないということかな。基本的には、むしろ「三条殿」こと直義の単独政権だった。
 成り行きというか、単純に尊氏に政権を担う気がなかったというだけなのかねえ。よく分からない。

田中奈保「直義・義詮が担った北朝と初期室町幕府の関係とは?」

 尊氏は、後醍醐との和睦を視野に入れて、あまり北朝との関係に積極的ではなかった。直義・光厳上皇のラインが、紐帯であったが、観応の擾乱で途切れがちであった。
 最終的に、南朝側が講和を破棄して戦闘を再開したことで、幕府側も和睦を諦め、後光厳を立て、本格的に北朝に肩入れするようになる。しかし、その後、崇光上皇後光厳天皇の対立という持明院統の内部対立に対処するために、足利義満は公家化して、朝廷運営に関与を深めていった。
 鎌倉幕府的な伝統で朝廷への介入を厭った尊氏・直義、それに対して息子の義詮はそのような意識から自由だった、か。

亀田俊和「脚光を浴びつつある『観応の擾乱』以降の幕府政治」

 現在の視点からすれば、公平に原告・被告の陳述を戦わせる「理非糺明」の方が優れているように見えるが、被告側の論点すり替えでいたずらに時間と費用がかかるものであった。直義が、鎌倉時代の制度を引き継いで構築した裁判制度や恩賞制度には、このような欠点があった。
 義詮は、思い切って、被告側の反論を省略した「一方的裁許」を導入して、武士たちの支持を得た。そもそも、さまざまな勢力が乱立する状況では、義詮の法廷に訴訟を持ち込む時点で、義詮への支持の表明であった。だからこそ、裁判が恩賞化したというのが興味深い。
 そして、迅速に恩賞を与えることができるようになったことが、義詮の勝利と政権の安定をもたらした。

新名一仁「九州統治に苦戦した初期室町幕府の対応とは?」

 熊本のこの時代の歴史記述というと、菊池氏・阿蘇氏と西征将軍府が軸となりがちだが、その対抗馬、鎮西探題の動き。一色氏、斯波氏の鎮西管領時代には、十分な軍事力を動員できず、南朝側優位で推移する。さらに、観応の擾乱によって、武家方の勢力が分裂して、西征将軍府が九州を支配する黄金時代の到来。
 それに対して、今川了俊鎮西探題に任じて、一気に逆転。
 了俊の成功に関しては、大内氏など中国地方の戦力を動員することに成功したことが大きいと。しかし、少弐冬資を謀殺した水島の変によって、島津氏との関係が悪化。結局、南九州では、安定した支配を展開できなかった。南九州国人一揆を島津氏に対抗させたが、国人の権益を保障しなかったことから、破綻。
 また、明との独自外交を展開しようとしたことから、逆鱗に触れて更迭された。

大西信行「『日本国王』号と倭寇をめぐる明皇帝の思惑とは?」

 沿岸の海賊集団鎮圧が、明にとって重要であった。その禁圧が重要なテーマで、日本側で規制がうまくいかない場合は、形式面での不備を理由に、拒否した。
 義満が日本国王号を認められたのは、明内部での建文帝と永楽帝の抗争があったからこそである。