峰岸純夫『享徳の乱:中世東国の「三十年戦争」』

享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)

享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)

 1454年から1482年まで継続した享徳の乱を紹介する本。
 これによって、鎌倉公方体制が崩壊し、関東の西半は、関東管領上杉氏の諸系統が割拠、東半には古河公方系が並び立つ体制になる。しかし、きっちりと室町時代の勢力が残って、これで「戦国の始まり」というのは、ちょっと弱い気がする。同様に、応仁の乱も、室町幕府の権威は、ある程度再建されているし。「戦国時代の開始」という話は、多分に象徴的というか。
 一方で、応仁の乱の導火線になったのはある程度、確かかな。斯波氏の家督争いは、東国対策で無理な人事を行ったせいだし。ただ、西軍側が、東国政策に批判的意見を持っていたというのは、どの程度、史料的裏づけがあるのだろうか。


 「領主階級」や「支配階級」といった用語の使い方に時代を感じる。


 しかし、上杉勢、微妙に弱くないか。公方と管領では、やはり、権威のレベルが違うのか。あるいは、外来の上杉氏勢力は、基盤が弱かったのか。序盤には、幕府軍介入まで負け続けているし、小山氏寝返りの際には攻めきれていないし、最後は追い詰められる形で講和に至っている。足利成氏が古河に移ったのも、幕命を受けた今川氏の軍勢が相模を制圧したため。関東を二分できたのも、越後上杉氏の介入によるものだし。
 あと、応仁の乱もそうだが、序盤で消耗した後は、だいたい大きな戦闘は少なくて、有力勢力の寝返りの時に、大きな戦闘が起きている感じか。最初の二年は激しい合戦が連続するが、その後、息切れして、数年に一度、どちらかが攻勢に出る、と。基本は五十子陣と古河を拠点に、利根川を挟んでにらみ合い。大きく動いたのは、1471年に小田持政が幕府側に寝返ったのを契機とする攻勢。このときは、一時古河公方を古河から追い落とすも、攻めきれずに撤退。1477年には、幕府方の長尾景春古河公方方に寝返って、五十子陣が崩壊。古河公方方が攻勢に出て、追い詰められる形で和睦。古河公方が公認される。
 近代戦と違って、相手方の勢力の切り崩しが重要なのだろうな。


 本書では、戦国時代の領主のあり方を、「職の体系」の崩壊と一円的な支配権の形成と指摘するが、それって、九州あたりでは、南北朝あたりからそんな感じになっているような気がするけど。室町後半の熊本あたりの領主層の姿って、情報源が少ないのは確かだが…