松本一夫『中世武士の勤務評定:南北朝期の軍事行動と恩賞給付システム』

 副タイトルのごとく、南北朝期の軍事行動を、それに伴って残された文書を中心に復元している。軍勢催促から恩賞給付にいたる一連の流れを概観する第一部、第二部はそれを前提に今まで深く言及されていない問題点を論じる。第三部は、兵糧や実際の戦闘などを紹介する。
 基本的に、内乱でやわくちゃな状態であることがよく分かるなあ。


 まず、軍勢催促の文書が出されて、それぞれの武士が参陣する。基本的な命令系統は守護→守護代経由で各武士団に伝達される。そして、参陣した武士は、着到帳に登録する。また、内乱期には、特定の勢力の軍勢に参加こと自体が功績となったため、参陣した武士側からの要求で着到状が作成提出された。
 その後、戦闘で軍功を上げると、軍奉行の確認を受けて実検帳に登録される。また、軍忠状を提出し、大将の側から確認を受ける。その上で軍勢の大将の推薦状である挙状を発給してもらう。また、特に目にとまった場合には、大将から感状が出される。恩賞給付の権限を持つ尊氏が発給した感状には「恩賞あるべき」と書かれるが、給付権を持たない人物の場合は「追って沙汰ある」と書かれるそうな。
 その後、すんなりと恩賞の充行が順調にいかない場合には、改めて要求する申状が出される。そして、恩賞の給付が認められると、充行状が発給される。しかし、その対象の土地には、もともとの領主の勢力が残っていて、実効支配が難航する。あるいは、二重給付が行われるといったことがあり、紛争が絶えなかった。後者に至っては、戦乱の中でデータを蓄積する官僚組織の不在を示唆しているなあ。


 第二部は、軍勢催促、軍奉行による実検手続き、軍忠状の形式と提出先、恩賞給付について、それぞれ再検討している。
 最初は軍勢催促。中立の勢力が多く存在し、誰にどのように参陣を要請していたか、よく分からない。少なくとも、一度参陣して登録した武士には、軍勢催促が行われた。一方、催促を受けた側も、応じない物がけっこう居て、怒りや処罰といった対応で参陣させようとした。また、軍勢催促の文書は、敵方に立つ武士を引き入れる勧誘工作に利用されていた。書状形式の軍勢催促が、心情や説得、戦況説明など、多くの情報を盛り込むことができるものとして多用されていたらしいが、私的形式の軍勢催促は後代に残されず、綸旨や御判御教書のような公的な形式の軍勢催促文書のみが残され、現在の史料残存状況になっているという。
 続いては軍奉行・侍所の問題を検討している。守護や国大将級の武将以上の指揮官の下で軍奉行や侍所といった軍勢を管理する部署が設置され、武士の討死・負傷や相手方武士の討ち取り・生け捕りといった軍功を確認、登録した。このような軍奉行や侍所の職員は、大将の被官が任じられた。幕府の「侍所」って、それぞれの軍勢の持つもののスケールアップ版だったのね。
 第三章は、軍忠状の形式や宛先の問題。1回の戦闘の軍功を記した「即時型」と複数の戦闘の軍功を並べた「一括型」があった。また、宛先も外様守護と足利一門の大将に、同じ内容の軍忠状が出されている。これらは、恩賞を受ける側の主体的な選択、恩賞の反応は出るまで複数回要求や確実に恩賞に結びつく提出先といったことから発生した。宛先の問題については、亀田俊和編『初期室町幕府研究の最前線』でも言及されていたな。
 最後は、恩賞給付の問題。基本的に南北朝期の武士達は、直接、幕府やそれに準ずる組織に恩賞給付の申請を行おうとした。しかし、そのように戦いのたびに戦線を離れられると、戦線が崩壊してしまうので、大将が代理申請をおこなうようになったのが、挙状であるという。
 あとは、尊氏の恩賞給付は、直接権限を持つだけにスムーズであった。また、土地以外でも、刀や具足、家紋と苗字といったものを与えることもあった。尊氏は物惜しみしない人物だからこそ、人気があったという。


 第三部は、戦場の実際ということで、兵糧調達を扱う第一章とその他細々としたことに言及する第二章の2章構成。
 第一章は、兵糧の問題。少なくとも、参陣から直後あたりは自弁だった。また、購入もけっこうあった。一方で、大半は略奪や徴発といった強制的な手段によった。荘園領主へ輸送する兵糧米を差し押さえる。ないし、荘園の現場で奪う。後者に関しては、荘園領主への納税の段階で、損金として控除され、史料に残ったりしている。
 そのような略奪の制度化として兵粮料所の預け置きや半済といった荘園権益の分割が行われるようになった。
 また、城の在番といった長期的な動員の場合は、兵粮は命じた指揮官からの給付だった。


 第二章は細々としたお話。使われた武器や城攻めの危険性、分捕切棄の法、旗差し、野伏、忍び、捕虜の取り扱い、城、文書の保管、戦乱の中の女性当主、信仰などが取り上げられる。
 軍忠状や手負注文などでは、矢傷が圧倒的に多い。しかし、戦死の要因としてどの程度だったかは分からないという指摘が興味深い。損害を受けて帰還した飛行機の損害場所を記した図の話と共通する感じだなあ。本当に致命的なダメージは、その図で空白のコクピットやエンジンだったとか。
 野伏が、待ち伏せ・奇襲・交通路遮断といった戦闘法とそのような戦闘に従事する武士未満の人々の両方を指す用語法だったという話も興味深い。
 あとは、家に伝わる文書を戦乱から守るために、寺院や縁の人々に預けたが、そこが戦場になって文書が失われてしまったという話も。戦乱から家財を守るために、寺院に預けるという行為が積極的に行われたのだな。