第14回永青文庫セミナー「熊本藩政と手永・惣庄屋制:近代地方自治の胎動」

 毎年、なるべく行くようにしている講演会。熊大学園祭にあわせて開催される附属図書館貴重資料展を解説する講演。
 しかし、今年は体調が悪いか、天候が悪いで、ほんとに講演会に行けなかった。ずいぶん久しぶり。日記を改めると、実に四月以来か。いろいろあったはずだけどねえ。
 あと、レジュメを見直すと、活字化されていても、近世史料って、8割くらいしか読めないなあ。肝心なところの用語の意味が分からない。こういうの、どうやって勉強すれば良いのかね。


 今年のテーマは、手永制度や惣庄屋について。
 永青文庫だけでなく、熊大寄託の家老松井家文書に研究予算が付いて目録化が進められ、文化財レスキューで預かった惣庄屋古閑家文書の研究予算が付いたことによって、明らかになった成果を広報する企画といったところか。
 近代地方自治の淵源を近世に見ようとする話。
 明治21年に公布された市町村制は、官製で、「外から押しつけられた自治」と評価されてきた。実際、制度そのものはプロイセンの制度を模倣したものらしい。これは、戦前までの江戸時代の評価が、「暗い近世」で表されるように、停滞の時代と見なされてきたためであった。しかし、実際には、人口や米の生産高などを検証すると、単位面積あたり、一人あたりの生産性は近世を通じて向上している。停滞した時代ではなく、現代につながるコミュニティや「家」が発展してきた時代。行政も、相応に発展してきた可能性が高い。天下泰平の時代に、自治や行政が、どのように日本で自律的に発展し、それが明治時代に引き継がれたか。
 その素材として、熊本藩は非常に適している。宝暦の改革以来、政治改革の模範とされ、手永・惣庄屋制度は高く評価されていた。また、熊本藩の史料は、熊大所蔵史料が「熊本藩関係貴重資料群」と名付けられているように、藩政史料や家老松井家文書、奉行中村家文書だけでなく、惣庄屋古閑家、さらに庄屋・村方文書も残る、立体的に検証できる状態にある。
 近世地方行政制度の発展を跡づけるには、うってつけである、と。


1、手永・惣庄屋とは何か
 このパートは、手永制度の解説。郡と村の中間にある、数十か村を束ねたまとまりが手永。だいたい、30か村、1万5000石程度を管掌する、小大名に匹敵する規模の領域。
 この手永制度は機械的に分けられたのではなく、戦国時代以来の地域的まとまりを継承し、街道や水系を通じての連絡が行われていた範囲。「木倉手永絵図」が展示されていたが、ここは日向往還を軸として、現在の御船町に当たる領域がまとまっていた。


2、近世初期の手永・惣庄屋制
 細川藩の小倉手永時代から18世紀半ばの宝暦の改革以前。
 最初は、領地を与えられた給人の恣意的な課役を抑制し、各種負担の村落間での公平化・均一化を図るために設置された。給人の知行地で、百姓の逃散・他領地への移動などの紛争が起こった場合、給人を置いて、惣庄屋から郡代へ上申するように命じている。
 人事の評価が行われ、検地の不正をおこなった高並又右衛門尉などは、処刑されるといった対応が取られている。
 加藤家改易後は、統治体制が破綻していた肥後国内で、惣庄屋候補となる在地有力者の調査を行い、経歴などの報告書が残されている。水俣村庄屋の吉左衛門尉の父親、深水帯刀は、豊臣秀吉の島津攻めで、侵攻ルートの案内を行ったり、関ヶ原合戦時に島津家の軍勢と戦ったりした人物。れっきとした武士身分だったようだけど、「帰農」したってことなのかね。
 領国の「境目」となる水俣、田浦、北里、郡浦の各手永の惣庄屋は、その後も、明治まで、代々、惣庄屋職を世襲した。
 また、惣庄屋の任命は、手永の百姓たちの信任が前提だった。また、惣庄屋の権限は、だんだんと拡大し、年貢率決定や収納作業に関して給人知行地も一括して行われるようになっていった。


3、藩政改革と手永・惣庄屋制
 18世紀半ば以降になると、人事評価による能力主義が重視されるようになる。近世初期以来、惣庄屋職を世襲してきた在地有力者の家系は、玉名郡中富手永の中富弥次右衛門が「御役方不呑込」や「不働之者」といった評価で免職される。
 一方、補充の人員は、金納で武士身分を購入した在御家人や一般の百姓から採用され、10年以内で異動する転勤惣庄屋制へと変化していく。飽田郡の出身者である古閑才蔵が北里手永の惣庄屋に任命されるような事例が紹介される。その才蔵が、託麻郡本庄手永の惣庄屋に転任し、引っ越すときには、身の回り品だけではなく、仏壇や箪笥、屏風などさまざまな調度品も運ぶ必要があり、人馬継ぎ立ての要請の史料には、235人の人夫や29匹の馬が必要と書かれている。
 19世紀に入ると、熊本藩は、大坂への米輸出への財政依存度を深める。そのため、安定した大坂廻米量の確保を求める大坂の商人の要請を容れて、定免制の導入が行われる。これは、手永単位で請け負われ、担当する惣庄屋たちは数千石規模の納付を義務づけられた。一方、惣庄屋たちの側からは、凶作時に備えた米の備蓄、事務の委任、藩役人の在地出張の停止、会所役人の増員などの要求を突きつけ、これを認められている。
 これらの権限と、実際に納入を確実に行うために、手永の財政強化が行われ、各種の地方税や運上金、新田からの収入、寄付金、公的資金などを「会所官銭」として備蓄。各種の運用に回された分も含めて、藩全体で金2500両、銀40貫余、銭3万2000貫余、米20万余石という膨大な資金を集積した。
 また、救貧や災害復興といった福祉分野も、手永会所が担当し、1792年の「島原大変肥後迷惑」の津波災害では、政策立案や援助対象の把握も行っている。


4,手永会所と会所役人
 惣庄屋のオフィスである手永会所は、経済的中心地である在町に置かれ、転勤惣庄屋制が定着したあとは、惣庄屋の私宅から完全に分離され、オフィス・官舎・米倉・文書庫などを備えるようになる。
 18世紀半ばまでは5人程度の人員だったが、請免制が導入されたあとは、増員され、20人以上になる。手代・下代・会所詰小頭などに別れ、年間250日以上執務するといった専業の役人として勤務するようになる。会所が忙しくなるのも、農繁期なので、自家の農業経営には到底タッチできなくなる。
 また、個々の役人の職掌は多岐にわたり、財務や治安任務の他にも、水防、福祉、役人の教育、文書管理、産業振興といったことを担当している。1854年の本庄手永手代の石原茂右衛門の担当が例に挙げられているが、25の職務を担当している。「大江村水車取建方」というのがあるけど、これ、白川本流か、渡鹿堰からの用水を使ったのか。どっちなんだろう。
 また、身体の弱い二男を採用してくれという願書からは、農村での職業選択の可能性を提供していたこと。一般の百姓が、役人として実務を担う可能性は、身分制解体の端緒ともなり得た。つーか、熊本藩では、「武士」がほとんど在地に足を踏み入れないようになっていることを考えると、普通にそのまま近代にスライドできそうだよなあ。


5、手永・惣庄屋制と明治維新
 手永制度は、明治三年の藩政改革で廃止され、手永は「郷」と改称される。しかし、領内では、水俣手永の深水参郎の留任運動が起きたように、非常に堅固に地域に根を下ろしていた。明治22年の市町村制施行時には、旧手永の事績が参照され、例えば大切畑ダムの記念碑はこの時に建てられている。
 明治前半の戸長や市町村吏といった地域行政の役人は、惣庄屋や会所役人経験者が多数を占め、また、地方議会の議員にも多く選出された。人員的な継続性が顕著であった。また、会所官銭は、「郷備金」として継承、自治的に運用され、教育・衛生・土木費などに使われた。九州鉄道の玉名部分の建設に、郷備金が充当されている事例が興味深い。
 明治23年に、「郡制」を導入しているが、当時の熊本県知事の松平正直が、熊本藩の手永の事例を根拠に、郡制廃止の意見書を提出。これが、意見書の模範として回覧され、また、松平正直は内務省で郡制反対の中心人物になるなど、近代に入っても直接規範として参照される制度であった。「熊本藩に生まれた近代」という言葉が冒頭で、キーワードとしてだされて、いくら何でも大げさだと思ったが、実際に、明治時代の日本全体に影響しうるものだったのだな。


 そして、松平正直の手永・郷を「藩治ノ美蹟」と褒めた意見書は、平成の大合併を含む、無思慮な地方自治体の拡大志向に対する批判として、現在的な意義を持っているなあ。ブクブクとやたらとでかいだけの自治体が、ここしばらくの災害で、自治体が被害状況を把握しきれないという失態を繰り返している状況を鑑みても。
 昭和の大合併で、手永規模に自治体が再結集したというのが、手永という地域的まとまりの手頃さを現しているなあ。


 文献メモ:
朝尾直弘「『公儀』と幕藩領主制」『朝尾直弘著作集 第3巻』岩波書店、2004
飯塚一幸『明治期の地方制度と名望家』吉川弘文館、2017
稲葉継陽『日本近世社会形成史論』校倉書房、2009
笠原和比古「『国持大名』論考」『武家政治の源流と展開』清文堂、2011
深尾京司他編『岩波講座 日本経済の歴史:第2巻:近世』岩波書店、2017
藤田武夫『日本地方財政制度の成立』岩波書店、1943
前田信孝「続郷備金の研究覚書」『市史研究くまもと』9、1998
吉村豊雄他編『熊本藩の地域社会と行政』思文閣出版、2009
今村直樹「近世地方役人から近代区町村吏へ」吉村他編『熊本藩の地域社会と行政』2009
今村直樹明治20年代旧熊本藩領における『民属金下戻運動』の歴史的意義」『明治維新史研究』5、2009
今村直樹「近世中後期の地域財政と地域運営財源」『永青文庫研究』2、2019