稲葉継陽『細川忠利:ポスト戦国世代の国づくり』

 うーむ、まとめるのが難しい。
 タイトルの通り、近世的な、百姓の農村共同体を基礎として、「百姓成立」のイデオロギーによって結合された「国家」が形成されていく過程を、外様の国持ち大名、細川忠利に焦点を当てて、描いていく。ちょうど、秀忠から家光と、江戸幕府がその形を作り上げていく時期に、壮年から老年期にさしかかっていた忠利は、同時に、外様大名勢力のオピニオンリーダー的な立場でもあったわけだな。
 個人的な主従関係の束でしかなかった大名の家臣団を、度重なる旱害や父忠興の分藩の動きを乗り越えて、私心を廃して「大名家」の存続に奉仕する、近世的な大名家臣団へと再編成していく苦闘。
 また、儒教的な「撫民」思想と村落社会から上がってくる再生産と経営維持の保証要求と共鳴し、近世的な統治体制ができあがる。公平性に基づいた課税、非常時の救済、私的な搾取の停止。逆に、百姓の側も武装闘争に打って出ることなく、体制の枠内での条件闘争という対応を行い、確実に勢税を納める


 細川忠興の豊後領国といい、改易前の加藤家の肥後領国といい、台帳のメンテナンスが行われていなかった。というか、検地帳のメンテナンスという発想自体がなかったのかなあ。結果、現在の状況と違う情報で課税が行われ、それが人々の不満の種になっていた。
 このような状況を回避するため、在地の事情に詳しい人材を惣庄屋として取り立て、地域の実務を委任する。惣庄屋は地域の個々の家までを把握し、地域開発や福祉活動を担い、藩の地域行政の要となっていく。
 そして、それを監督する奉行は、それぞれの惣庄屋の勤務状況を監視し、地域の課税の公平を図っていく。
 同時に、実際に地域の課税実務を担う惣庄屋や個々の所領を与えられた武士の恣意的な支配の抑制を図っていく。
 「私心なき統治」がキーワードとなっていく。


 あとは、忠興の隠居家と細川本家の家臣団との対立関係が印象的。忠興隠居家からの要求に忙殺される奉行たち行政スタッフ。私心なき統治を目指す忠利家臣とルーズな戦国的体制を引きずる忠興隠居家の感情的な対立。
 これは、豊後時代、肥後時代と継続し、忠興は立孝に隠居家を相続させようと画策するが、それは宇土支藩の形成という形で、決定的な対立は回避されることになる。
 一方で、忠興の隠居家の家臣団は、忠興の死後、家臣団から離れていくことになる。
 逆に言うと、こういう代替わり、近世国家形成の過程ではじき出された武士たちは、その後、どのように生きたのだろうな。加藤忠廣の配流に従った家臣が、縁戚関係や地縁で、各地の家臣団に吸収されていくような過程があったのだろうか。


 あとは、その後の「統治」の困難さ。忠利の息子、光尚の時代、続く不作に苦しめられて、大規模なリストラの企画を余儀なくされる。8年という短い治世の末には、遺言書に「領地の返上」を書くといった絶望的な状況に陥る。
 近世の領国支配の苦しさ。

 忠利はこう述べる。今度自分が国元に戻ったなら、御蔵納代官・郡奉行・惣庄屋の職務実態(「申付様」)について自分に報告せよ。これら役人らは、「私なき様に」職務にあたることが肝要である。個々の役人の不届きは、本来は「其身一分」の問題なのであるが、細川家による領国支配のあり方は隣国からも注目され、したがって将軍の知るところにもなるのだから、役人の「下々」に対する「私成儀」の押し付けは、「国のため家の為」のレベルの問題だと考えねばならない。
 彼の政治思想の真髄を明瞭に示した文章である。ここに直接的に表現されているのは、役人の百姓に対する私的権限行為を絶対的な悪とみなし、その余地を極限まで制約することで、公的な領国支配=藩政を諸大名の中でも模範的に定着させていこうとする忠利の政治姿勢である。これまでの本書の叙述からも分かるように、こうした姿勢は、彼自身がつねに領国の地域社会の現実と向かい合うことを通じて維持されたものであった。p.174-5

 実際のところ、裁判権が細分化された天領よりも、こういう国持ち大名の領国のほうが、制度的には整っていたのかも知れないなあ。