湧々座特別講演会「史跡妙解寺・泰勝寺墓所:細川大名家墓所が語る歴史」

 妙解寺跡・泰勝寺跡にある細川家歴代の墓所についての講演。講師は、熊本城調査研究センターの美野口雅朗氏。中世と近世の墓の意味あいの違い。細川家の墓所が、何故二つ存在するのか。そのあたりがメイン。


 中世の武将の墓地と近世大名の墓地は、規模においても、機能においても、隔絶した差がある。中世においては、石塔はそれなり立派だが、墓前に空間があるわけではなく、祭祀の場として意識されていなかったらしい。累代墓を形成せず、単発的である。基壇や荘厳具を伴わず、他の墓との差異化も弱い。継続的に祀られなかったらしく、石塔も部品がごちゃごちゃになっていたり、場所が移っていたり、後世に改めて作られたものもかなり見受けられるという。このあたりは、肥後国一揆で在地の勢力が根こそぎされていることも影響していそうだけど。少なくとも、戦国時代の武士の墓は、継続的に管理されていなかったらしい。また、江戸後半から近代にはいってから、子孫や地域による顕彰の為に整備された墓も多いという。はなはだしいのは、木山弾正の墓のように、近代に入ってから建てられたものもあるという。
 一方で、近世の大名墓は、一族の累代墓として継続的に管理される。また、大きな墓域を形成し、基壇を伴うなど墓石の規模、荘厳具(香炉・水盤・燈篭など)、付帯設備などを伴い、墓前には祭祀空間が準備される。
 単なる墓ではなく、藩主の権威・家中の結合の再確認・統治の正統性を現す装置として機能するようになる。近世に入って、「家」という社会構成原理が、明確に表現される場となるわけね。


 このような大名墓は、豊臣秀吉の豊国廟を嚆矢とし、徳川家康東照宮で定式化される。織田信長の墓は、戦国期のスタイルを引き継いで、規模が小さいものだという。
 また、大名の墓は複数存在し、江戸と国許の二つあるのは普通。他に京都など縁故の大寺院、高野山などの霊地、自家が発祥した本貫の地などに墓が建設される。
 形式も、仏式がメインだが、神道式や儒教式などのバリエーションがある。


 ここからが本題で、細川家の墓所が妙解寺跡と泰勝寺跡の二つあるのか。
 まず、第一に、加藤家の城下町モデルを踏襲して、鬼門と裏鬼門を押さえる役割をになったのではないかという。加藤家時代にも、立田山には豊国廟、横手には妙永寺が存在し、泰勝寺、妙解寺はそれに近接して存在している。また、両者建設の石材の供給にも、水運が利用できる場所であった。


 また、それぞれは違う意味を持っていた。
 妙解寺には、「熊本藩」の始祖である忠利から9代治年まで、忠利の直系の子孫が埋葬されている。妙解寺は、忠利の権威を称揚し、その子孫の権威を表現する施設であった。また、その墓所は、藩主と子女は埋葬空間を異にし、藩主の墓も、徐々に小さくなっていくなど、忠利を頂点に、明確に階層性を現した空間になっている。
 一方、泰勝寺は、藤孝、忠興とその妻を中心に、12代斉護を除く、10代斉茲以降の歴代が葬られている。こちらは、戦国時代を戦い抜き、近世大名としての細川家を築いた二人を顕彰する施設であり、また宇土支藩から入った10代目以降もこちらに葬られている。12代斉護は、重賢ファンで、そちらに葬られるのを望んだらしい。
 泰勝寺の四つ御廟は、17世紀の後半、1676年の忠興五輪塔を建設したころに、一気に整備されたらしい。それ以前は、熊本移封後に建造された藤孝・麝香・ガラシャ五輪塔が、霊屋をともなって並んでいた可能性が高いと。
 二ヵ所合わせて、54万石の大藩の儀礼装置にふさわしい存在であったと。


 ほかはエピソード的に。
 拝殿を伴う「細川タイプ」の霊屋が南禅寺の藤孝墓から発展したらしいこと。三斎忠興が利休ゆかりの欠け燈籠を墓石に使った結果、子孫にも燈篭を墓石とする墓が散見される。江戸時代の後半になると五輪塔の形式が形骸化し、石工独自の形式が創案されるようになり、それが熊本にも移入されるようになる。墓所の水盤に茶室の蹲型のものが使われ、茶人大名としての自己主張が表されている。奉献灯篭に、家臣団の序列が鮮明に現されている。一門・三家老・その他の重臣の順番。八代第一中学の敷地には、忠興による信長の供養塔が存在するが、その隣に忠興の90年忌の際に建てられた享保二十年の銘の供養塔が立っている。これは、今まで認識されてこなかったとか。
 お墓も、いろいろと興味深い。


 関連:私たちの町の遺跡 - 熊本市ホームページ
 このページの大名墓物語に、今回の講演とほぼ同じ内容が書かれているらしい。