永青文庫セミナー「細川忠利の領国支配と熊本城」

 細川忠利の熊本入国直後の統治活動や地震で破損した熊本城修復の意義など。16世紀前半は、寛永2年の地震や同10年の群発地震旱魃と逆に豪雨災害、寛永牛疫といった災害に悩まされた時代だった。
 この時期の国持大名の統治に関する史料は、比較的少ない。早い事例。そして、忠利の治世から、江戸時代の社会の特質に接近しようというお話。


 加藤家による支配が、旱魃などによって事実上破綻していた。恣意的な課税や古い台帳による課税、旱魃への対策の不備。このような、統治の乱れが加藤家改易の根本的理由だった。このような、混乱状態や地震でダメージを被った熊本城の修復が忠利の課題だった。
 そこで、目安箱を持参しての直訴の興行や訴訟ルートの整備、地元の惣庄屋を通じた阿蘇の湿地開発などの地域開発が行われた。合志郡の用水工事、宇土半島の耕地開発や海辺の護岸工事などについて人事を決めた史料が紹介。地元側からの創意を受け入れ、それに資金援助をするという方式は、江戸時代後期の地域開発につながるものだった。また、小倉時代と比べて、地域支配関係の役職が増えているなど、人事の面からも地方統治の重視がうかがわれる。
 白川から川尻への水路を拡幅して、船を通そうとした史料が紹介されているが、現在に残る水路のどれなんだろう。旧三号線沿いには、水路がいくつかあるが。発掘したら、いろいろ分かるのかね。


 また、寛永2年の地震で被害を受けた熊本城の修復も重要な課題であった。しかし、百姓へかけられる負担を考えると、そう簡単ではなかった。また、幕府への届出手続きも、なかなか煩雑であったと。「城が見苦しいのはどこでも同様」という書状の記述が興味深い。1600年前後に西国に相次いで建設された近世城郭が、傷みが激しくなってくる時期だったと。
 加藤家が修復を完遂できず、入国の時点で、ほとんどの櫓や塀が修理が必要な状態にあった。幕府への届けにも、長くかかるだろうという見通しが述べられている。しかし、熊本城修復は、将軍家光の病、公儀普請への動員、天草島原の乱への出兵、寛永牛疫などの諸事で、なかなか進まなかった。
 1640年の八代城の破損修復の手続きの話も興味深い。細川忠興の隠居所であり、半独立の立場にあった。そのため、幕府への修理願いは、それぞれが提出許可を受ける必要があった。一方で、修理そのものは熊本藩と忠興隠居料で分担されていて、本丸は熊本藩負担。この事例でも、熊本から人が出て修理していると。


 寛永10年(1633)の群発地震で、忠利が避難場所がない本丸での居住を諦め、花畑屋敷をメインの居住地域にしたこと。花畑屋敷にも、藩主の避難場所である「地震屋」が建設されていたという話もおもしろい。
 なんで、本丸御殿を捨てて、花畑に居住したのかなと思っていたが、地震対策だったわけだ。
 一方で、儀礼は、なるべく本丸御殿でやろうとしていたという。


 まとめということで、細川忠利の政治思想が、百姓の要求の前に、「撫民思想」に行き着いていたと。百姓の権利要求の圧力の前に、代官や村役人にまで、「私なき」権限行使を心がけるように、説諭する必要があった。
 一方で、軍事的団体としての家中という側面も濃厚に残る。1789年の「万一熊本城渡申候時之合験」という史料からは、幕府の命令ではなく、あくまで、藩主の直接命令で城の明け渡しが行われること。家中は、幕府との直接的な命令関係はなかったこと。
 このような、半独立的な大名領国のあり方が、その後の政治史を規定すると。


 1764年に、元加藤家家臣の森本義太夫の子孫に、天守閣内の武器を検分させた史料も、興味深い。「大鍵」とか「込金」とか、「打鍵」と呼ばれる、城攻め用とおぼしき資材が、加藤家の時代からそのまま置かれていたと。展示されている資料には図も描いてあったが、実際、どうやって使うものだったのだろう。