講演会「道家家三代と天草・島原一揆」「〈肥後の維新〉の主柱となった道家之山」

 今回は、ダブルヘッダー
 今年寄贈された道家家文書から、近世初めの時期を稲葉継陽教授が、幕末の道家之山の活動を三澤純准教授が担当して、今回の展示になっている。講演も、二人で分けて、近世初頭と幕末に分けて。


 前半は、戦国末期から近世初頭にかけて。近世社会は諸身分の「家」が基礎単位で、その家が集まった団体(村や藩など)の維持が近世人の社会活動の中核だった。近世資料は、その過程で蓄積・保存される。で、今回寄贈された道家家文書は、その近世の社会活動に格好の事例であると。
 で、紹介された文書から、三つのテーマを紹介。最初は、細川家の藩主からの書状で、献上品に対する礼状や忠利の血判状など。戦国時代末期の武士、特に新参の武士にとって、藩主とのパーソナルな関係が非常に重要になること。忠利の血判状は、忠利が跡継ぎと決まった直後に、人質の提出を受けて、引き立てると約束したもの。この血判状が、親の初代帯刀のアレンジなのか、自身でなんらかの交渉を行なったのか。忠利と二代目主成は、どういう関係だったのかとか、いろいろと気になる文書。結局、2700石の大身になっているから、信頼は受けていたんだろうけど。
 二つ目は、天草・島原の乱の話。道家主成は組頭として275名を率いて参戦しているが、島原到着直後に兵力の報告を求めた文書とそれに応じて出された報告が、道家文書と永青文庫の両方から出されている。また、細かく、個人名を挙げて、活動を報告しているのも興味深い。この時、主成の甥で、主成の家が無嗣断絶した後名跡を継いだ清十郎のエピソードも興味深い。四人扶持で原城攻略に参戦し、「須戸口」に取り付いたが、同僚の証言が得られず、恩賞がなかった。で、証言しなかった同僚に文句を言った返事が残っているのがおもしろい。お前のせいで、恩賞がなかったではないかと怒り心頭の清十郎。最終的に八年後に、運動が実って、所領を受けている。
 そして、清十郎が得た所領の割付などの文書から、実際の現地での実務が庄屋や百姓に丸投げされている姿も現れる。在地の協力によって、支配が支えられていた姿。


 後半は、幕末期の話。道家之山は、明治三年の実学党政権成立時に、前政権から引き続き中枢に残った数少ない人物であったこと。また、横井小楠元田永孚などが、評価する言葉を残している。新たに知藩事となった細川護久やその弟から絶大な信頼を得ていたことを示す手紙。幕閣や福井藩などとの人脈などが紹介される。
 また、「江戸日記」や「江戸風説書」など、長い、ディテールにみちた史料も存在する。政治史やさまざまな分野で、ディテールを提供する、豊かな私文書の世界があると。