光成準治『シリーズ【実像に迫る】18:九州の関ヶ原』

九州の関ヶ原 (シリーズ・実像に迫る018)

九州の関ヶ原 (シリーズ・実像に迫る018)

 「東部戦線」とつくと、こうなんというか、特別感があるな。


 関ヶ原につながる一連の政変劇の中で、九州の諸大名がどのように動いたのかを、同時代の史料を元に追った本。こうしてみると、大概の大名は、自家の維持のために、かなり後々まで去就に迷ったのだな。「内府たがいの条々」による家康の正統性の毀損は、かなり効果的だったとも言えそう。
 一貫して東軍だったのは黒田如水、細川領の留守居松井康行以下くらい。逆に、最後まで西軍方として活動したのも立花宗茂や太田一吉、小西行長など少数だった。だいたい、上方に戦力を取られて、国元ではほとんど活動していない感じか。


 加藤清正が、明確に東軍として認識されていなかったというのも興味深い。
 庄内の乱では、家康の意向に反して、伊集院忠真を支援。それによって、家康との関係が冷え込んでいた。小西行長が庄内への出兵を依頼される、前田利長と家康の対立時には上洛を阻止されるなど、むしろ反徳川的な立場であった。会津征討で在国を求められたというのは、上杉家と戦ったあと、恩賞を配分したくないという意志の表示だったのかねえ。
 島津義弘が「気ままの人」として、思慮なく戦闘を起こすと警戒されていたというのが興味深い。
 実際の戦闘局面でも、岐阜城の陥落という東軍優勢の情報を得るまで、どちらにも肩入れするのを避けていた。


 全体としては、第一部が豊後・日向の諸大名の向背。第二部が肥後の加藤清正、相良頼房の動向。最後の第三部が肥前筑後方面、鍋島直茂立花宗茂の動向といったところ。
 東軍側であることを示すためには、実際に軍事行動を起こし、身の証しを立てなければならなかった。中途半端な行動は、改易のもとになったというのが、厳しいなあ。


 第一部は、豊後の佐賀関の戦いと日向の伊東氏の行動がメイン。
 豊後では、大友家復興を目指す大友吉統勢と黒田・細川連合軍の激突である現別府市域の石垣原の合戦が著名だが、相対的に知名度の低い佐賀関の戦いをクローズアップ。
 大友旧臣の吉統への加担を座視し、西軍諸大名への軍事行動に消極的だった中川秀成は、東軍方であることを周囲に示すため、西軍側であることが明らかな太田一吉への攻撃を企図する。大阪から帰還してきた軍勢を中心とした部隊が、佐賀関で太田勢と激突するが、大敗を喫し、重臣を多く失う。大友方に与した田原紹忍も、参加していて、口封じに成功しているあたりが老獪だな。
 あとは、こちらも、どちらかと言えば西軍よりな行動を取った伊東氏の、高橋氏の宮崎城や佐土原など旧伊東氏領国で、日向の島津氏領への攻撃。旧領の回復を狙った、しかし、島津氏との和平がなり、旧領回復はならなかった。


 第二部は、肥後の諸勢力の向背。加藤清正だけではなく、相良氏もなかなか、複雑な行動をしているのだな。西軍に与して大垣城を守備するが、秋月種長・高橋元種を誘って、東軍へ寝返り。西軍方の垣見一直、熊谷直盛、木村由信を殺害。
 家を守るために、かなり積極的に動いているのが印象的。西軍が優勢なら、そちらに積極的に加担。そして、東軍が優勢となれば、一緒に籠城している大名を殺害しても、行動する。


 最後は、立花宗茂の戦い。筑後の諸大名は、西軍に属して行動。関ヶ原の合戦後、帰還してきた立花宗茂は、あくまで西軍として行動するが、鍋島、黒田、加藤勢などに包囲され、危機に。西軍に与した鍋島氏は、身の証しを立てるため宗茂攻撃の先鋒を担い、江上合戦が発生。立花軍は撤退するも、かなりの勇戦をみせ、講和にもち込む一助になった。講和で家存続は認められる前提だったのか。大きめの大名には、かなり融和的な対応を取っているな。
 あと、結局軍事行動を起こさなかった筑紫氏が改易されているのが印象的。やはり、生き延びるためには、東軍方としての軍事行動は必須だった、と。