黒嶋敏編『戦国合戦<大敗>の歴史学』

戦国合戦〈大敗〉の歴史学

戦国合戦〈大敗〉の歴史学

 戦国時代、大名領国の崩壊に直結したとされる大敗戦に焦点を当てた論集。多数著者だけに、テーマが微妙に雑多な感じもあるが…
 「大敗」といっても、いきなり領国が崩壊することは意外に少ないし、それを生き延びた勢力も多い。逆に、衝撃度の大きな敗戦も。本書で集められた「大敗」事例では、長篠合戦、耳川合戦、桶狭間の戦いの衝撃度が大きい感じ。桶狭間は氏真に家督を譲っていたとは言え大将戦死。長篠・耳川では、家老クラスや作戦指揮官を多数失い、その後に大きな影響を残す。
 逆に、大敗であっても、組織の根幹にダメージが入らなければ、勝ち組の残れる可能性もそれなりにあると。
 ラストの三本の論文は、大敗が、後代どう語られるようになったか。「記憶」の側面から追求した論文が並ぶ。

  1. 金子拓「長篠の戦いにおける武田氏の『大敗』と『長篠おくれ』の精神史」
  2. 畑山周平「木崎原の戦いに関する基礎的研究:日向伊東氏の<大敗>を考えていくために」
  3. 八木直樹「耳川大敗と大友領国」
  4. 山田貴司「大内義隆の『雲州敗軍』とその影響」
  5. 田中信司「江口合戦:細川氏室町幕府将軍の『大敗』とは」
  6. 播磨良紀「今川義元の西上と<大敗>:桶狭間の戦い
  7. 福原圭一「<大敗>からみる川中島の戦い
  8. 谷口央「三方ヶ原での<大敗>と徳川家臣団」
  9. 黒嶋敏「伊達家の不祥事と<大敗>:人取橋の戦い



 以下、興味を惹かれたものを。
 畑山論文は、伊東氏衰退の端緒となったとされる木崎原の戦いを、当時の南九州の政治史の史料を再検討し、前後の政治史を整理、再定義した論文。さまざまな編年史料の校訂検討。その上で、永禄年間には、伊東・相良・肝付・菱刈・渋谷などの反島津連合が形成され苦戦していた。これが、1569年の大口戸神尾の戦いで、大口城の後詰めに出てきた相良・伊東軍は大敗。これが、反島津連合の解体のターニングポイントで、木崎原の戦いよりも、こちらの大敗の影響が大きかったと指摘する。この後、伊東氏や肝付氏は、状況を打開すべく攻勢に出ることを強いられることになり、リスクの高い攻勢作戦で敗北を繰り返すことになる。領国内への侵攻をうけ、守り切れなかったことから、伊東氏領国は崩壊することになる。では、なぜ木崎原の戦いが著名になったのかが課題、と。
 領国内に侵攻を受ける状況が、本当に深刻だったんだな。近隣諸勢力との同盟関係や家内の動揺が、崩壊に直結しかねない。


 八木論文は、大友氏の北部九州の覇権崩壊の端緒となった耳川の戦いを取り上げる。耳川の敗戦で、この方面では重臣から現場指揮官クラスが多数討たれ、その補充に苦労した。しかし、肥後方面に出陣していた「南郡衆」は無傷で帰還するなど、本拠である豊後は維持できた。一方、肥前龍造寺隆信筑前の秋月氏などが離反。肥後、筑後豊前などの現地国衆の離反の雪崩を起こす。豊後外に恒常的な支配体制を築いていなかった大友領国は、大敗北で面目を失ったあとは、それをとどめる術を持たなかった。その後も、筑前への出兵や友好的国衆を通じた寝返り工作を続けたが、最終的に実らなかった。
 従属国衆が一気に離反した、衝撃度の高い敗戦であったことは確かだろうな。


 山田論文は、大内義隆の出雲侵攻と出雲国衆の離反による敗北、その政治的影響。京都政界との交流による権威上昇を大内氏は利用してきたが、京都権門の所領保護の要求が、地元国衆の権益を侵すことになり、一斉離反を招いた。それによって、大損害を被ったのは確かだが、もともとの支配領域の安定は維持され、反撃も試みられている。
 一方、雲州敗軍後、足利将軍を見限って、朝廷との関係強化を試みる。さらに、下向地下官人の娘を母とする実子が誕生し、後継者になり、下向公家や朝廷との親密さが増していく。このような、政治バランスの変動が雲州敗軍によって起こり、間接的に大内家の崩壊をもたらした、と。


 田中論文は、三好宗三を敗死させ、細川晴元足利義輝を京都から没落させ、「中世の終わり」、新しい時代の始まりと評価されることもある、江口の戦いを検討する。京都の権門の動きを見ると、三好長慶は、京兆家当主となった細川氏綱重臣、摂津一国守護代としての立場にとどまり、「三好政権」というほどの影響力を振るっていなかった事を指摘する。京都の問題については、まともに対応できていなかった。将軍は六角家の庇護を得て、京都への影響力を振るい続けた。また、細川家も影が薄くはなるが、一定の存在感を維持し続けたと指摘する。
 そんなに、スパッと時代は変わらない、と。


 播磨論文は、著名な桶狭間の戦いを取り上げる。織田と今川は、西三河の広い範囲で戦いを続けていて、桶狭間の戦いにつながる攻勢も、その一連の戦いの一コマで、大高城への後詰めの戦いであった。両軍とも、ある程度の広がりを持った戦域で活動していて、桶狭間での信長軍と義元軍の兵力は、それほど大きなものでなかった可能性が高い。同時期に、奥三河や西三河での戦闘が史料に残っているという。
 まあ、同程度の戦力同士の戦いでも、ここまで一方的に決着が付く戦いはあまり多くなさそうだけど。


 ラストの三題は、近世まで生き延びた上杉、徳川、伊達を取り上げる。
 最初の上杉の第四次川中島合戦は、信濃介入をめぐる大義名分の前後での変化を。後二者は、大敗である三方ヶ原の戦い人取橋の戦いが、その後、近世にどう語られるようになったか。
 最初の上杉氏の信濃介入をめぐる名分の変遷が興味深い。謙信の願文からは、最初は、信濃の人々に向けて、信濃のための訴えていた。しかし、第三次川中島合戦までは、参陣していなかった揚北衆まで動員した第四次合戦では、大損害を被る大敗を喫した。それ以後、川中島で討ち死にした越後の武士たちの報復としての戦いと変遷していく。ある意味、死者に引かれてるなあ。
 後の編纂物や家譜類では、敗戦そのものより、そこで先祖がどう活躍したかがテーマになった三方ヶ原。派手に敗走した割に損害が少なかったのか、致命傷にならなかったから、なのかね。人取橋の戦いも、伊達成実など参加した家臣たちの功業譚へと変質していく。一方で、先代である輝宗が、拉致殺害された「不祥事」は、タブーとなってしまったため、正確な事件の状況が伝わらず、後の歴史書でブレが出来てしまった。なんか、だいたいの失敗談が、その後、再起に成功した話とセットになってるのと同じ構図だな。
 しかし、陸奥南部の親戚ネットワークの濃さ。反政宗連合が、政宗の叔父・叔母主導で組織されているというのが、因果な。そして、輝宗の横死が、伊達氏の南陸奥地域進出の原動力になったという。