本多隆成『徳川家康と武田氏:信玄・勝頼との十四年戦争』

 タイトルの通り、徳川・武田感の抗争を中心に描く。こうしてみると、本能寺の変に至るまで、ほとんどずっと武田との抗争を続けていたのだな。一時は遠江の過半を抑えられてしまう窮地にも。
 本書は、研究史にも目配りをして、個々の事実の確定を行っている。今回、時間不足で流して読んで、文章そのものも非常に読みやすいので、サクッと読めてしまったが、本当はちゃんと参照文献もチェックしながら読まないと、読めてないのだろうな。しかし、熊本にいると手の入りにくそうな論文がいくつも…
 書状なんかは、年紀が入っていないので、その書状が何時出され、どういう政治状況を反映して書かれたものかで、議論になる。年月日が確定できる事象や周辺の状況を考え合わせて読まないといけない。逆に、文書の年代比定は、研究者の政治史の見通しに影響される側面もあるのかねえ。


 全体は、おおよそ三部構成。武田・徳川の抗争に至る前史、三方ヶ原の戦いの前後の状況、そして、勝頼の継承と崩壊まで。本当に、武田家との抗争を通じて、徳川家康は鍛えられたんだなあ。


 最初は、徳川と武田の対立の端緒となる、今川領の占領とそこから発生した齟齬。永禄年間の状況。
 桶狭間以降、求心力を失って、徐々に解体していく今川領国。今川を見限って、織田・徳川と同盟を結び、侵攻する。この時、家康とは、大井川を境界とした領土分割の密約が出来ていた。しかし、信玄が別働隊を遠江に侵攻させたことで、家康は信玄に不信感を持つ。一方、信玄は、早々に駿府を落としたが、その後、北条氏との対立や今川勢の抵抗で、駿河に孤立。駿府周辺に戦力を残して、本隊は撤退を余儀なくされる。
 その間に、家康は、掛川城にこもる今川氏真と和平交渉をおこない、氏真の北条領への退去と掛川城の開城が実現。しかし、勝手に和睦しないという約束が破られ、今度は信玄が家康に不信感を抱く。
 このような、相互不信の連鎖が、三方ヶ原の戦いを含む一連の戦争から始まる、徳川・武田の抗争の端緒となる。


 第二部分は、主に三方ヶ原の戦いを含む信玄の攻勢について。
 結局、信玄は、どういう作戦構想を持って、戦争を始めたのだろうか。これだけの戦力を動員したからには、織田家に対しても、それなりの成果をおさめないといけないだろうけど。どこまで侵攻するつもりだったのだろうか。結局、信玄の健康悪化と帰国途上の死によって、分からないままになるわけだが。
 信玄の発給文書の検討から、信玄軍本隊は駿河から西に進軍したことを明らかにするのが興味深い。遠江東部の国衆は、信玄の調略に応じて、次々と降伏。天竜川近くの二俣城を攻略。
 その後、浜松をスルーして、進軍。家康は、領国の崩壊を防ぐためにも、打って出ざるを得ず、それを読んでいた武田軍に、大敗を喫することになる。
 その後、武田軍は浜松城の包囲を行わず、西に進軍していく。しかし、信玄の死で、作戦構想は未完のまま、終わる。ここが、家康一大ピンチだった感じだな、やっぱり。


 最後は、勝頼の時代。
 信玄死亡の情報はあっという間に広まり、今度は家康の巻き返し。駿河への出兵、長篠城の攻略、三河三方衆の切り崩しなど。これに対し、天正二年(1574)に、勝頼は高天神城攻略。三河への出兵。武田側の攻勢が続く。
 しかし、翌年の長篠の合戦で一気にバランスは織田・徳川連合軍の優勢に傾く。勝頼は、織田勢の戦力を見誤った可能性か…
 その後、家康は遠江の諸城を攻略。高天神城が焦点になる。勝頼は、当然、何度も後詰めの兵を出す。しかし、上杉家の家督継承問題で北条家と対立した結果、駿河伊豆国境地域で抗争が激化。高天神城への後詰めが出せなくなり、さらに、信長からの和睦拒否の助言もあって、高天神城は陥落。
 これによって、勝頼の権威は失墜し、木曽義昌の寝返りから、武田領国は地滑り的に解体していく。本能寺の変以降、甲斐・信濃も領国に加え、家康は五カ国の太守として飛躍していく。