福田正秀『加藤清正と忠廣:肥後加藤家改易の研究』

加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究

加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究

 全国各地に散った加藤家と加藤家家臣の文書を博捜して、昔ながらの清正像をまったく逆転させている本。部分的に、証明できそうにない議論もあるが。清正については、「地震加藤」のエピソードから始まるように、後半生がメイン。むしろ、忠廣についての記述が厚く、改易後も含めて、2/3が忠廣について。
 冒頭の系図にもあるとおり、秀吉死後の清正は、むしろ徳川親族大名であった。徳川家康の実子の岳父となった外様大名は、他は浅野氏だけなんだよな。徳川頼宣の岳父に選ばれたということは、それだけの信頼を得ていたということなのだろう。さらに、阿部氏、榊原氏、水野氏といった幕閣とも、姻族関係を結んでいる。むしろ、清正の立場は、秀吉時代のほうが不安定であった。
 徳川家康豊臣秀頼の二条城での会見も、豊臣側というよりは、徳川頼宣の義父・後見人としての立場で参加している。ここいらは、常識化しつつあるかな。豊臣家とも縁戚であり、家康実子の義父という立場は、両方のパイプ役として重要であった。
 毒饅頭も、あくまでフィクションで、前後で茶会を催していたり、能見物をしたりと、平素と変わらない、と。しかし、肥後に帰国後に、にわかに発病して、言葉を発することも出来なくなり、そのまま死去。遺言も残せなかった。家臣団は、死の前に使者を発し、かろうじて、忠廣への跡目相続に成功する。


 第二章は忠廣の改易まで。忠廣の絶望的なセンスのなさが露わになるな。
 清正の急逝で混乱する加藤家は、将軍家の庇護の元に存続することになる。清正代には、家老職が定められていなかったが、将軍家によって任命。さらに、当面の施政方針も幕府から出される。若年の当主による相続、馬方牛方騒動、大坂の陣でも内部で混乱があって参加できないといった、改易になりかねない問題も、将軍家の特別の恩顧によって乗り切ることに成功する。家康の従姉妹・養女で、清正後家の清浄院、徳川頼宣と婚約がなされていた八十姫、忠廣の正室となった琴姫といった婚姻関係で、徳川将軍家と加藤家はつながり、縛られた。しかし、国元にいた琴姫が、江戸の上屋敷に移って以降、阿蘇の国衆玉目氏出身の忠廣生母正応院や忠廣側室法乗院との関係が悪化、家政が乱れ、これが改易の原因となる。徳川将軍家の血を引く嫡子光正との関係悪化。そして、秀忠死去時のどさくさに紛れて、側室と娘・息子を連れ帰る暴挙にでてしまったことが決め手となる。最終的に、光正の謀書がきっかけになっているが、国元や周囲の大名の反応を見るに、改易の心当たりはいくつもあったようだ。
 息子の光正(光広)の謀書事件は、決め手ではなかったと指摘する。忠廣が、側室玉目氏と藤松、亀姫を無断で連れ出したことが決定的になったと指摘する。この時代の加藤家の存立が将軍家との関係に依存していたのに、その将軍家の姫をないがしろにする。さらに、妻子の無断帰国で、庇護を続けてきた将軍家も、示しがつかなくなり改易に至った。本書では言及されていないけど、家光への代替わりで、将軍との親戚関係の距離があいた側面はありそうな気がする。
 この時代に、駿河大納言忠長を始め、家康親族大名に乱行が見られるのは、時代の曲がり角だったって事なのかな。


 第三章は、加藤家改易後の動き。
 熊本城受け取りまでのすったもんだ。幕府は一万もの軍勢を仕立てて、受け取りに行ったのか。馳走する途上の大名も、思わぬ物入りだったろうな。立て籠もって戦うか、開城するか、加藤家臣団の動き。
 出羽国庄内、丸岡での忠廣の配流生活。徳川血縁の姫をないがしろにした玉目氏系の生母正応院や側室姉妹も、家光の怒りを買って、同様に流罪の扱いだったこと。正応院の母も、丸岡に迎えられ、玉目氏系の女性に囲まれた配流生活であった。また、忠廣が残した和歌集「塵躰集」から、琴姫や光正を思いやるような記述がなく、また、なぜ改易されたかも理解していなかったことを明らかにしている。一方で、藤松・亀姫を産んだ側室法乗院を求める気持ちは載せられていて、玉目氏系の女性に心を奪われていた様が明らかになる。つーか、玉目氏ダメじゃん…
 一万石の堪忍料を与えられたが、老中松平信綱の指示によって「悪所」を渡すように指示され、水害を被りやすい土地が割り当てられた。結果として、額面の半分程度の収入しかなく、随行してきた家臣・女中の給与に事欠く有様だったという。酒井家や加藤家の財産を維持する家臣からの仕送りでまかなっていたようだ。家臣団内での刃傷沙汰や丸岡火災によって焼け出され、かつ、地域への貢献が評価されたらしき状況など、丸岡での生活についても紹介される。
 一方、飛騨の金森氏に預けられた嫡子光正は、一年程度で病死。どのような生活をしていたかの情報はほとんど残っていない。琴姫の消息ははっきりしない。法乗院と藤松も、忠廣死去直後に死亡し、亀姫だけが残された。しかしまあ、配流の時の申し聞かせの「うつけものにて仕り候と思召される」ってのが、きつい。
 彼女は、加藤遺臣の赦免運動によって、許され、その後、紀州徳川家に嫁いでいた八十姫の庇護をうけ、旗本阿部政重へ嫁ぎ、加藤家の伝来品は阿部家の元で維持された。そのうちの一部は、近代に入って、紀州徳川家に取得されたという。


 加藤家の家臣団が興味深いな。牛方馬方騒動は、加藤家を維持するために、牛方が負けを認めた談合の結果。そのため、主要人物が配流お預けと比較的処罰が軽かった。牛方の清正親族勢力が後退し、加藤右馬允が筆頭家老になるが、領国統治の実務は、3000石前後の加藤平左衛門が、「国中万奉行」として執政した。しかし、細川家に伝来する「肥後先代ノしおきノ覚」という史料に見られる肥後統治の乱れっぷりを見ると、家臣団を統御することが出来ていなかったのだろうなあ。そもそも、清正の時代には家老が置かれていなかったというワンマンぶりを見るに、清正抜きでの統治のノウハウが無かったのだろうなあ。
 加藤家改易後、加藤家の道具や財産類は、加藤家に残された。ここいらにも、将軍家が加藤家に寛大であることがうかがえるが、それらの財産は、京都本圀寺の塔頭清浄院に建てられた蔵に収められ、遺臣団は門前町に住んで、財産と清正正室清浄院を守って結束していた。その中核が、万奉行であった加藤平左衛門であった。彼の家系は、その後、関宿藩久世家に召し抱えられ、現代に史料を残している。一方、筆頭家老である加藤右馬允は、平左衛門が管理する財産を横領したと、平左衛門から返還要求をなされている。ここいらのコントラストがおもしろい。右馬允は、半独立大名として自己の家中の維持と、番方の武士たちの生計のために、このような挙にでたらしい。これに関しては、八代市立博物館で開かれた展覧会「加藤正方の遺産」でも、紹介されているな。
 あとは、丸岡まで従った家臣団が、忠廣の死後、酒井家からどうしたいかを聞かれて、答えた史料が興味深い。知行取階層だと、西国を中心に、各地に親族ネットワークが散っていて、まずはそこに頼ろうとする。一方で、足軽武家奉公人クラスだと、親族は肥後国内に限られ、肥後に帰りたいと申し立てる人間が多い。この時点で、丸岡残留ないし酒井家召し抱えを即答した家臣は数人。最終的には、6人が酒井家家臣に。


 知られざる、清正の養子百助の記事も興味深い。妻山崎氏の弟を、養子として迎えていた。加藤家の有力部将として、一軍団を率いて、関ヶ原の時の宇土城攻めや朝鮮戦役に従軍。水俣城代の地位にあった。しかし、嫡子忠廣が誕生して、養子縁組を解消。実家に戻るが、素行が荒れて、家臣と喧嘩して死んだという。なんともはや。
 朝鮮戦役中に夭折した虎熊、慶長九年に夭折した熊之助清孝と、忠廣の他にも、実子が二人居たが、成人したのは忠廣だけであった。虎熊が順調に育っていたら、加藤家の継承も、安定して進んでいたかもな。


 熊本城の築城の意図やなぜ、一国一城令で八代城が例外扱いされたかについて、海外との関係をメインに述べているのも興味深い。熊本城は、朝鮮戦役後、明・朝鮮からの反撃に備えたために、あれだけの壮大なものになった。古代山城と同じ役目だったと指摘。
 八代城も、有名貿易港である八代の海岸線防備のために残された。そもそも、対島津なら佐敷城のほうが適している。
 ここいらの議論は興味深いが、ドンピシャの史料が残っていない限り、論証は難しいだろうなあ。