神田千里『織田信長』

織田信長 (ちくま新書)

織田信長 (ちくま新書)

 「権威を軽蔑し、全国統一の野望を抱く革命児」信長というイメージを、信長の書状などの生の史料を読み解くことによって、否定していく。「革命児」信長よりも、こっちの信長像の方が魅力的だよなあ。既存の権威を尊重し、特に革新的な政治思想を抱いていたわけではない人物が、いつの間にか新時代の扉を開けていた。あと、信長の「革新性」の淵源として、戦前は、信長が「勤皇家」として評価されていたことが根にあるという指摘にはっとした。そういえば、京都の建勲神社は信長を顕彰するために建設された神社だったなと。


 第一章と第二章は、それぞれ、信長が足利将軍と朝廷に対してどのような態度で臨んだかを明らかにする。信長は、足利将軍にたいし、家臣としての立場で接していた。最終的に義昭と衝突し、京都から退去させることになるが、最後まで和睦の交渉を行い、自ら望んだ結果ではなかったと指摘する。朝廷に対しても、先例を尊重した「朝儀」の安定を望んでいたこと。政治的対立を持ち込まれたときも、そのようなラインで裁定を行ったことが指摘される。


 続いての第三章では、「天下布武」の実態ということで、「天下」という用語がどのように使われていたのかを検証する。「天下」が将軍に付随した用語であり、地理的範囲としては五畿内程度の範囲であったことを明らかにする。「天下布武」は、将軍に随行して上洛し、畿内近国を平定するといった意味で、他の戦国大名を征服するような意図ではなかった。


 では、なぜ、信長は各地の戦国武将と衝突し、次々と征服を重ねていったのかを明らかにするのが、次の第四章である。毛利氏・武田氏との対立から、武力衝突に至った過程を検証し、「国郡境目争論」の性格が強かったことを指摘する。領国境界地域の国衆や大名相互の争いに、援助を求められた戦国大名がかかわって戦火が拡大する。武田の領国崩壊は、最初から意図していたものではなかったという。
 同時に、秀吉の「惣無事令」の先駆的形態が、すでに信長の時代に存在したこと。大名同士の戦争は、傘下の国衆をまとめる政治的デモンストレーションの性格が強く、政治目的に沿って行なわれた。城を攻め落として、女子供まで皆殺しにするのも、それを大規模な軍勢で奪還するのも、そのような政治的効果がメインであったこと。同時に、国衆の評価を維持できないと、武田領国の崩壊のように、地すべり的に解体することもある。武田勝頼にとって、致命傷となったのは、長篠の戦いではなく、高天神城に後詰ができず見殺ししたことにあった。これによって、領国全域に動揺が走り、信濃の国衆が雪崩をうつように織田方に鞍替えしたことで、滅びた。
 ただ、勢力を接するたびに、隣接大名と関係を悪化させ、次々と戦争を繰り返したのは、どうなんだろうな。信長に問題があったのか、信長じゃなくても関係が悪化したのか。


 最後は、信長が「軽視」したとされる宗教勢力への対し方。本願寺比叡山に対する行動は、彼らが「権門」、政治勢力であるからこそ行なわれた。本願寺に対しては、三度の停戦、最終的な降伏後には友好関係が続いていること。比叡山焼討に対しては、足利義教の事例を紹介し、相対化する。越前一向一揆や伊勢長嶋の「根切り」に関しては、軍事的デモンストレーションとしての皆殺しは度々行なわれたもので、本願寺戦争が非妥協的な政治闘争ではなかったと。
 法華宗への弾圧が、自力救済的な、宗派同士の「決闘」であった「宗論」を抑制するためのものであったこと。この時代には、戦国大名領国内の武士たちは、自力救済を禁圧されており、その論理が宗教団体まで拡大されたものであると指摘する。キリスト教への好意については、そもそも関西地域では弱小教団で政治的危険性が少なく、また、好奇心を満足させる。さらに、当時の宗教的な思潮である「天道」に親和的で理解しやすかったことが要因として紹介される。


 第六章は信長がどんな政治的人物であったかのまとめ。
 信長の政治構想が、基本的には、室町時代の延長であったこと。諸大名の合議による体制を考えていたこと。惣無事令の先駆的形態が室町時代にはすでに存在したこと。政治的には、穏健というか、保守的な考えで、なにか大改革をなそうとは思っていなかった。
 また、家臣からの助言を聞き入れていることや家臣団の合議が重要で、それを当然と考えていたあたり、「独裁者」信長像の否定。
 さらに、「世間の評判」を非常に重視し、気にしていたことも明らかにする。「世間の評判」が領国の解体につながるものであったことを考えると、それに敏感なのは当然であるが。佐久間信盛の追放に関しても、キーワードは「世間の評判」であったこと。家臣団になんらかの亀裂が入っていたからこその改易だったのではないかと指摘する。


 丁寧な論証で、信長の「全国統一事業」が一貫した政策でなかったことを明らかにする。意外と穏健な人物像も。まあ、基本的人格が激情家で、せっかちな人っぽくはあるが、守役の死をもっての諫言や織田領国を纏め上げる過程で、政治的な老練さを身につけていったのかな。


 以下、メモ:

 その足利義昭と決定的に対立した時、信長はどのような手段を取ろうとしたのか、安国寺恵瓊が先にみた書状で示した観測は興味深い。「信長の時代は、五年三年ほどは続くだろう。来年ぐらいには公家になるかにみえる。その後地位の上昇を極めたあげく、破滅するように思われる。ただし藤吉郎[豊臣秀吉]はそうはならないだろう〈信長の代五年三年は持たるべく候、明年辺りは公家などにならるべく候かと見及び候、さ候て後、高転びに仰向けに転ばれ候ずると見え申し候。藤吉郎はさりとてはの者にて候〉」(同上)。p.56

 将軍の権威の代わりに、公家化して権威を補おうとしたと。そう考えると、秀吉の「新しさ」ってあんまり見当たらないような気がするな。

 後にみるように信長は世間の「外聞」すなわち噂に敏感であり、下克上を行なったとみられることは極力避けていたように思われる。とすれば、足利義昭が将軍の地位を罷免されることなく、存命である状況では、仮に天皇の意向が、勧修寺晴豊の告げた「将軍になさるべき」とのことであった場合には、受けがたいものがあったのではないか。もちろん現段階では推測の域を出ず、今後の研究が必要ではあるが、このようにみることも可能である。本能寺の変までひと月たらず、とうとう信長の回答は知れぬままになってしまった。p.95

 三職推任の話。そこまで「外聞」を気にしたのか。

 旧秩序の破壊すなわち進歩という観念もまた、わりあい限られた時代の思考であり、いつの時代にもあてはまるとは限らないといえよう。特に近代科学以前の織田信長の時代に、こうした思考が至るところにみられたとは、必ずしもいえない。ようするに伝統の遵守ではなく破壊こそが進歩を生むとの観念は現代人にこそ馴染み深いが、近代科学以前の時代に生きた信長の行動を考える場合には、必ずしも適切ではないと思われる。p.203

 現代的な観念で過去を見ることの限界。つーか、「旧秩序の破壊すなわち進歩」で幼稚な「改革」を呼号する人間が多すぎて、最近、うんざり。