渡邊大門『戦国誕生:中世日本が終焉するとき』

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

 ずいぶん久しぶりの応仁の乱本4冊目。再読。
 うーん、政治構造の話で「形式から実体へ」という議論の組立は、筋が悪いのではないかなあ。人間関係という目に見えないもののどこに「実体」があるのだろうか。確かに、現地の人間関係や権益を押さえた守護代層が、名目上の主である守護の力を凌いでしまったわけではあるが。
 実力主義・自力救済は、それこそ南北朝時代からの動き。応仁の乱の一方の雄、山名家にしても、足利将軍と抗争しながら、実力で領国を切り取った存在なのを思い出すべき。守護家の後継者争いや実力がないと地位を維持できないというのも、15世紀半ばから始まったわけではない。そもそも、家臣団の支持が重要と言う点では、鎌倉時代から江戸時代に至るまで、基本的な構造は変わっていない。均して見ると、南北朝期からの長期的なシークエンスの一環にしか見えない。
 結局のところ、15世紀半ばが戦国時代の画期と主張するなら、以前の時代から、どう質的に変わったかを示せないとダメなのではなかろうか。そこで、いまいち成功していない。


 ラストで「現実主義」の政治家として紹介される山名宗全も、細川政元も、次の代以降、しっちゃかめっちゃかにしたダメ政治家であること、足利義政と変わりないと思うが。政元に至っては、宗教にうつつを抜かしたあげく、後継者を決めきれずに暗殺されて、細川領国体制を破綻させた張本人じゃない。
 そもそも、応仁の乱の登場人物は、みな判断がブレブレ、ご都合主義。どうして、そのような意思決定が行われるのか、政策過程を追求してみないとダメなのではないだろうか。
 あと、15世紀後半には、宮廷や幕府の儀礼は、完全に崩壊してしまうが、武家や全国の人々が、国家儀礼を執行するためのコストを負担する意欲を失ったのは、いつか。そして、なぜかを問うのは重要かもしれない。


 義政の評価がひたすら辛いのが印象的。まあ、最初の事件で、家臣団から義絶された人物を、守護にしようとしたり、人事のセンスはないなと思わなくはないが。一方で、40年にわたって、将軍の地位を維持し続けたからには、完全にダメとはいえないのではなかろうか。そもそも、室町将軍の権威は、足利義教暗殺で完全に失墜している。その状況のなかで、弱いなら弱いなりに、文化などを梃子に、権威を維持したのは、それなりの手腕だったのではなかろうか。
 実際、後継者が二代に渡って、現実的な力を強めようと、軍事指揮権を元に無理な戦争を行って自滅していることを考えると。流されることで、政権を維持するというのは、ありなのかも。そのような対応が、長期的に首を絞めたことは否めないものの。


 以下、メモ:

当たり前のように親からこへと継承されてきた将軍職や守護職は、時代の経過とともに円滑に委譲されなくなっていった。p.5

 そもそも、この時代、そういう実子継承ルールが完全に定着していたのだろうか。実子だからと、継承が保証されていたようには見えないのだが。

 かねてから雨の日がつづいていたかが、同年四月二十四日には今までになかったほどの大雨になった。その大雨によって、京都の至るところに放置されていた餓死者、病死者の死体は、一気に流されていったのである。死体の措置に困惑してた都の人びとは、この大雨に喝采した。願阿弥らが昼夜なく死体の処理に従事しても追いつかなかったのが、自然現象によって一気に解決されたのだから、何とも皮肉な話である。p.35-6

 寛正の飢饉のときの話。溢れていた死体が、水害で一気に押し流されたという。これ、流された先であちこちに漂着したと思うけど、その後はどうしたのだろうな。意外と、海まで流れたのか。

 山名宗全以下、西軍の諸将が歓迎したのは、いうまでもなく義視を新将軍に担ごうとしたからであった。西軍は将軍を擁することによって、戦いへの精神的な支柱を得たのである。翌応仁三年(一四六九)一月、山名宗全らは年頭を祝して、義視に剣馬を献上している。こうした好意も、彼らが義視を将軍とみなしていた証である。むろん義視は将軍宣下を受けておらず、正式な将軍ではない。しかし、宗全ら西軍は義視が足利家の血統を受け継いでいることを重視し、将軍に擁立したのである。もはや将軍擁立は「形式」でなく、「実体」が前面に押し出されたのである。p.158

 ここは、変な論理の組み立てだと思うが。むしろ、室町将軍の血統という「貴種」が「形式」で、将軍宣下が「実体」なのでは。