中井均・齋藤慎一『歴史家の城歩き』

歴史家の城歩き

歴史家の城歩き

 城郭研究者の対談本。関東をフィールドとする文献史学者と中部関西をフィールドとする考古学者が、互いに、城を案内し合う。出自も、フィールドも違うことが、比較による日本列島内の城郭の作りの地域性や研究の違いを見せて、おもしろい。縄張り図やフィールドの写真、他の城郭の縄張り図との比較で、戦国時代の城の多様性や時代的変化、分かっていないことだらけといった光景が見えて楽しい本。今年上半期では、かなり上位の楽しさ。とはいえ、読み終わってから、二ヶ月ほど置いていたので、読書ノートを作るのに、事実上、読み直し。つーか、対談本は、要約が難しい。というか、要約できない部分が楽しい本。


 第一部は、西日本と関東の城を、二つづつ見ていく話。兵庫県の置塩城と東京の由井城からは、山上に「町」を作る西日本の城とまとまった郭を作らず堀切と切り岸で守る関東の城の対比を描き出す。設計思想が全然違うのだな。由井城は、住むことを全然考えていない。また、攻防ともに少人数での先頭を想定している、と。
 続くは、これまた東京の滝山城。由井城が、国衆クラスの詰めの城であるのに対して、滝山城は北条氏と武田氏や上杉氏の大名間戦争に対応した城。地理院地図の起伏陰影図や色別標高図で、城の形が読み取れる規模。大規模な横堀で、敵を阻止する。また、領国単位での交通や流通網の再編成、城下町の建設なども、特徴である。
 馬出が、聚楽第までつながる議論も、当否はともかく興味深い。
 ラストは、兵庫県に戻って、三木城攻めの陣城の紹介。少数しか中には入れない規模、飛び越えられてしまうような低い土塁で、どこまでガチで戦う気であったのかと指摘されるのが興味深い。織豊政権の陣城は、むしろ、包囲している相手を精神的に圧迫するための、見せる城である、と。また、敵方の領国の支配組織を、自分の側に作り替える際にも、技巧的な城郭建築が、力を見せつけるものであった、と。


 後半は、様々な城の縄張り図を比較しながら、大きなくくりでの議論。城の成立、織田・豊臣の城、近世の城、縄張りの設計者、縄張り研究に関して、併せて6章構成。


 最初は、戦国の城郭の始まり。守護の系譜を引く勢力は、平地に館を構えて、山城を持たない。在地の土豪や国人クラスが、まず、小規模な要害を構える、というのが、興味深い。戦国前期に放棄されたのが確定しているのは横地城と勝間田城の二つのみ。前者は並列的に郭が並ぶ「一揆的構造」、後者は本拠地から離れた場所にあるのが、特徴。
 常陸の二重方形居館が、内部を細かく区切って、複雑な形の城に変わっていく姿が興味深い。
 あとは、石垣の問題。裏込めのない石垣がメイン。石工とその石切場が近接しているところでは、石垣が築かれる。石工集団と戦国大名の距離など。戦国時代の石垣は、防御のためと言うよりは、権威を見せつけるためのものであった。軍事的に意味を持つようになるのは、高石垣の上に櫓を設置する織田信長以降であるそうな。


 第二章は、その、織田・豊臣の城。信長の城も、岐阜城小牧山城安土城の間では、技術的な断絶があり、一括した「信長式の城」は存在しない、と。安土城は、多聞山城に見られるような大和の技術を導入した、と。
 一方、豊臣の城は、規格かされて、各地で導入されている。聚楽第の縄張り、特に馬出を使った縄張りのコピーが、広島城などに見られる。また、東北では、同じような郭が併存する群郭式の城の本丸だけ石垣と虎口を導入するところから、だんだんと豊臣式の城へ変化していく、影響の深化が見られる。
 徳川家康は、かなり後まで、石垣を拒んでいたという指摘も興味深い。


 第三章は、近世、徳川家の城の普請の変遷。
 家康の時代は、織豊系城郭の作りで、新たな「天下」への変化にともなって、城もスクラップ・アンド・ビルドされていく。家康段階の城は、秀忠、家光代に徹底的に作り替えられる。天守は、実用性から完全な飾りに。倉庫状態で、藩主が天守に登るのは、一生に1回くらいだったという。熊本城も、本丸御殿から花畑御殿へと、だんだんと下に行くからなあ。
 石垣は、崩れるたびに積み直されるので、時代的変化がある。亀甲積みとか、落とし積みとか。呪術的なものや職人の遊び心を取り込んでいく。
 また、秀吉時代の築城ラッシュは、瓦職人、金箔職人、漆職人などを払底させる。豊臣時代は、かなり技術が低下していた。それが、徳川時代には、技術が向上。しかし、築城が行われなくなり、余った職人は、石工が墓石など、別の分野に転用。それが、江戸時代の文化的発展に資したという。


 第四章は、城の縄張りの技術者の話。というか、結局のところ、情報が少なくてよく分からない。技術者の世界が、文書や政治の世界から遠かった。口伝で伝承されて、現在はよく分からなくなっている。藤堂高虎が、縄張り技術者出身なんじゃないかという指摘が興味深い。あと、城郭技術者として抱えられた連中も、近世の間に技術を失っていき、入札担当者みたいになっていくとか。
 滝山城聚楽第の間に技術的交流の可能性があって、大名単位の地域論は成立しがたい、と。


 第五、第六章は、縄張り研究と考古学、文献史学のすりあわせの問題。
 杉山城問題が投げかける影は、大きいのだな。発掘された遺物と城の稼働年代が合わないという問題は、あちこちであって、それをブラックボックスにせずに、正面から向き合わなければならない。というか、これから先、縄張り図で研究者と対抗してトップを張ろうと思ったら、考古学はできないといけないのか。ある意味、アマチュアに厳しい時代だな。
 著者二人の間で、意見が分かれるのも興味深い。中井氏は16世紀前半という年代観を受け入れられないようだ。
 縄張りからの編年は、半世紀ほどのスパンでは可能かもしれないが、それを可能にするための知見の蓄積が不足している。資料化の志が必要、と。
 しかし、世の中、架空の城をでっち上げてしまう在地研究者が居るのか…


 以下、メモ:

 城攻めには時間をかけています。力攻めすれば数日で終わるかもしれないのに、三木城攻めでは天正六年から八年までの二年をかけている。その間には兵の移動があったり、別方面に行かされたりするのでしょう。だけど三木城だけは完全に囲い込んで、三木勢を出さないことだけは貫徹している。陣城を二〇箇所も造って、多重土塁を造るのは、時間も金もすごくかかる。織田・豊臣は、なぜそんな城攻めをするのか。少人数でなおかつ戦死者を出さないことが、陣城戦の効果として経済力や時間の問題よりも勝っていたとしか考えられないのです。三木城は日殺し、鳥取城攻めは飢え殺しといわれるけど、城内の兵には餓死者が出ても、攻める側の織田・豊臣側にはほぼ戦死者がいない。その点こそが織田・豊臣の陣城戦ではないのかと思うのです。p.105

 三木城攻めの時は、あちこちに敵を抱えているから、とにかく、損害を減らしたかったのだろうなあ。時間が味方というか。城攻めの兵力も節約できるし。
 秀吉が、包囲戦をもっぱらにしたのは、なんでなんだろうなあ。まあ、絶対負けない戦いとは言えるが。

 中井 元亀元年の佐和山城攻めのとき、織田信長が樋口直房という土豪木下藤吉郎に宛てて、佐和山攻めの諸砦の道具を両人に預けるので、早々に小谷表の普請に使えと命じた史料があるのです。どうやら、織田氏の陣城には造り方のテキストがあって、陣城を造る材木や用材も最初からストックされている。城攻めが終わったら解体し、次のところに持って行く。いわばプレハブです。そうした工夫で経済的・時間的な不合理をカバーしているのではないかなと思うのです。p.115

 へえ。規格化した資材がストックされていたのか。つーか、基本的に無理攻め自体が希少例なんじゃなかろうか。だいたい、付け城を造って、長い時間かけるパターンが多いように思うが。
 譜代の家臣とか、どこの武家にとっても希少な資源だろうし。

 中井 縄張り研究は、一六世紀後半の軍事的に突出した城に注目するから、階段状に削平された郭しかない城は、興味の範囲外に置かれて、検証されなかった。階段状の郭が配置されただけの城が何時の時代のものか、それ自体も検証されていない。p.126

 そりゃ、仕方ないよねえ。みて、おおーと思わない城の縄張り図作りとか、苦行でしかないだろうし。