山崎信二『瓦が語る日本史:中世寺院から近世城郭まで』

瓦が語る日本史―中世寺院から近世城郭まで

瓦が語る日本史―中世寺院から近世城郭まで

 うーむ、思った以上にガチな瓦の話だった。瓦に刻まれた制作者の銘や文様の編年、製作技法から、生産者の組織がどう変化していったのかを追跡している本。メインは、大和、和泉、播磨の生産者集団について。そもそも、中世の瓦がどのようなものであったかを知らないだけに、読むのに時間がかかりまくった。一月では済んでいないような。途中、ガンガン割り込まれまくったせいでもあるが。


 鎌倉時代治承・寿永の乱で焼かれた奈良の大寺院の再建から、話はスタートする。東大寺の瓦は、備前国で大量に生産され、奈良に搬入された。結果として、奈良近辺に関連する造瓦組織が発展しなかった。一方、興福寺は、藤原摂関家の氏寺として、急速に再建が進み、座に編成された造瓦組織が形成される。また、西の京地域には、法隆寺など本所の寺の事業があるときだけ、瓦造りに従事する兼業の瓦職人が存在し、後には、西の京に存在する寺院や出稼ぎを組み合わせて、生産能力を高めていった。一方で、奈良の瓦工は、本所興福寺のための作業があるため、事業拡大に慎重にならざるを得なかった。
 一方、政治の中心地であり、需要地でもあった京都や鎌倉。前者は外部からの搬入で独自の瓦生産が発展しにくく、その後出てきた芽も、応仁の乱で失われることになる。また、鎌倉は、鎌倉幕府の崩壊で、周囲に育っていた瓦生産の組織が失われる。大和に関しても、室町時代後半の治安悪化で、西の京の瓦師は外部に流出することになる。


 中盤は、中世の造瓦組織の話。
 法隆寺を中心に、多くの瓦に名前を刻んだ、大和の瓦大工、橘氏。正重・国重、そして三代の吉重。この時代、武士として活躍したわけではないのに、かなり長い年代の活動が追える人物は稀有なんじゃなかろうか。棟梁のみが、へら書きを残すことができる。そして、複数の家系の人々が配下に組織される。また、この地域の瓦工の一部が播磨に移動して、橘氏として活動している。両地域を跨ぎ、また関西一円に活動の痕跡が残る。
 大阪平野では、「天王寺」あるいは「四天王寺」と刻む瓦大工の一群が、16世紀以降、根来や大阪湾周辺に痕跡を残す。彼らは、大阪の本願寺の造営という大量の瓦需要にこたえて、四天王寺周辺に集まったと思われる。
 播磨では、「英賀住人」を名乗る瓦大工が登場するようになる。


 後半は、織豊政権時代以降。城郭の大量建築にともなって、瓦の需要も激増する。各地の瓦工を混成編成して、瓦を供給させたため、瓦に名前を刻む事例が激減する。文様や技法、寺社の瓦の銘などから、追跡する。また、多くの瓦工をまとめるため、「瓦御大工」といった、取りまとめをおこなう立場の人物が出てくることになる。
 信長政権の時代には、四天王寺周辺の瓦工が編成され、安土城、清須城、名護屋城といった信長関係の城郭の瓦葺に従事する。しかし、信長の死後、その活動範囲は縮小する。
 新たに台頭した秀吉の城郭の瓦を製造したのは、播磨の英賀や姫路の瓦大工たちだった。中国方面の攻略を任された秀吉は、川港として富を集めた英賀の住民を姫路に吸収。瓦工たちも、秀吉の下で再編成される。かれらは、秀吉の勢力伸長とともに、活動範囲を広げ、大阪城聚楽第名護屋城、さらに秀吉配下の黒田家や小早川家の城、名島城や中津城にも痕跡を残す。一方、肥後に関しては、堺商人の出身であった小西行長の伝手から、堺系の瓦が中心だったとされる。
 その後、近世には、関西方面の瓦大工の中で、家康に取り入った「御用瓦師」寺島家が台頭。大阪と京都の家に分かれ、争いつつ、朝廷や関西の寺社の瓦葺きを請け負った。寺島家は江戸にも進出するが、中期以降は独自の瓦生産が隆盛する。また、紀州藩にも、分家が入っているが、継続的な工事需要がなく、自然消滅している。
 一方、各地の藩では、地場の瓦大工の組織が独占をおこなう形に変化していった。


 織豊政権以降の城郭建築のインパクト。「日本史」と銘をうちながら、メインは関西の瓦なのがちょっと残念だけど。まあ、この手法で、日本全国の瓦の動向や社会的意義を論じるのは、人間業じゃないか。