梅林秀行『京都の凸凹を歩く 2』

京都の凸凹を歩く2 名所と聖地に秘められた高低差の謎

京都の凸凹を歩く2 名所と聖地に秘められた高低差の謎

 久しぶりに図書館の本を読了。京都の歴史と地形の関係を紹介する本の第2弾。今回取り上げられるのは、嵐山、金閣寺、吉田山、御所東、源氏物語の六条院の想定地、伏見城が取り上げられる。今回は、むしろ、地形よりも街並みの形成に力点を置いた感じかなあ。秀吉の都市建設の影響力の大きさが印象的だな。
 しかし、京都は、両側に断層があって怖いな。特に、東側の断層は中心市街地に近いだけに。伏見なんか、断層上にたくさんの人が住んでいるわけで、いったん動いたらどんな惨状になるやら。熊本地震を経験して、かなり過敏になっているな。というか、京都は耐震性に不安がある建物が多そうだし。


 嵐山は様々な時代の「美」。周囲が急崖に囲まれた行き止まりの土地、荒々しい谷。鎌倉時代の亀山殿によるかつての都市の姿。阪急嵐山駅が景観を「計画」していた。天龍寺庭園の「意図」など。あのあたりは、ウロウロしていた場所だけど、全然見えていなかったのだな。亀山殿あたりについては、仁木宏・山田邦和編著『歴史家の案内する京都』で紹介されていたような。


 続いては、金閣寺西園寺家の北山第から、足利義満に取得されて北山殿へ。京都盆地の高所だっただけに、広い眺望が期待できた、と。金閣寺と「北山新都心」に関しては、小林丈広他『京都の歴史を歩く』や西山良平他『平安京の地域形成』などで言及されている。


 吉田山は、断層の端の部分が盛り上がった地形。そこに、春日神社の分社が勧請され、そこの社家だった吉田家が、神道思想や神社支配でのし上がったために有名になった。江戸時代までは、大元宮が本殿だった。あるいは、吉田山の周辺には「吉田構」と呼ばれる小規模な城塞都市が存在したという話が興味深い。
 宗教的空間から、遊興空間へ。さらに、近代に入って、東側の大文字山の眺望が珍重されて谷川茂庵の屋敷や住宅地が建設され、性質が変わっていく、と。


 御所東は、京都御苑と鴨川に挟まれた地域。家賃が比較的安いため個性派の書店や飲食店が出現している。この場所の歴史的性格を探る章。京の辺縁部。御土居が真ん中を貫いた地域だったが、寛文堤の建設で河原が開発される。さらに、近代に入りメインストリートとして河原町通りの拡幅と路面電車の導入で、中心地となる。辺縁性と中心性の二重構造と。


 源氏物語の六条院が想定される場所の、町の歴史とフィクションが何となく重なる姿。六条院は、春夏秋冬の町に分けられていたが、それが、何となく現実の歴史と重なるのが興味深い。七条新地や市比賣神社、世継ぎ地蔵など。


 最後は、秀吉の時代には、「首都」であった伏見城について。廃城になって石垣の石材や建物は撤去されているが、伏見城の縄張りは、比較的分かりやすく残存している。さらに、城下町のプランも比較的、そのまま残っている、と。武家屋敷街は、その後、桃畑になり、近代に入って住宅地化した。しかし、雛壇状の造成地は、そのまま利用され続けた。さらに、地形を無視したまっすぐな道路が、秀吉の新たな身分制社会の表現であったという指摘。江戸は、むしろ、地形に従っている部分が大きいから、この伏見の都市プランは、まさに秀吉の特徴なのだろうな。