菊地浩之『織田家臣団の謎』

織田家臣団の謎 (角川選書)

織田家臣団の謎 (角川選書)

 財閥研究の本を出している著者の、戦国時代本二冊目。『徳川家臣団の謎」に続くは、先代の信秀の時代から、どのように織田弾正忠家の家臣団が構成されてきたかを解き明かす本。特に、序盤、国衆や土豪クラスの勢力の向背を読み解く手際はさすがといった感じ。後半は、先行研究から大きく飛躍するような話はあまりないが。


 基本的に、織田弾正忠家に大身の譜代家臣は存在しない。譜代というと、祖父の代に支配下に入れた津島衆くらいのもの。清須織田家の家臣は重用しているが、岩倉織田家はほとんど取り上げられていない。佐久間信盛柴田勝家は、自身の動員能力を評価されて家老に取り立てられた。大名級になったのは、身近から選抜された者以外では、敵対勢力崩壊の要因になった外様衆、美濃三人衆や細川藤孝荒木村重松永久秀など。
 信長配下で出世した人間には、門地がほとんどない人間が多いなあ。「方面軍司令官」級では、羽柴秀吉明智光秀滝川一益あたり、ほとんど一から家臣団を構成した印象。


 信秀の時代は、守護斯波氏-守護代清須織田家-三奉行の一人という枠組みで行動していた。那古屋今川氏の攻略や三河侵攻は、清須織田家の承認の元、国衆や在地土豪を与力や援軍として動員することで、大きな戦力を集めていた。しかし、それはやはり自己の支配下にある戦力ではなかった。また、美濃方面との関わりは能動的なものではなく、守護斯波氏の命令で、援軍として出撃していた。
 また、清須織田家との関係は、彦五郎への代替わりによって、関係が悪化していく。弾正忠家は、だんだんと苦境に追い込まれていく。また、弾正忠家の勢力も、那古屋の信長と末盛の信勝に分割相続され、信長の勢力は、代替わり当初には非常に小さいものであった。信長の尾張統一には、斉藤道三との同盟関係が大きかった。
 平手政秀の自害は、清須や末盛との関係を悪化させ、信長を苦境に追い込んだためであるという指摘が興味深い。
 周囲の勢力と戦う時に、末盛の信勝配下の勢力を動員できたり、できなかったり、情勢によって戦力が変わったという考え方か。


 信長の初期家臣団には、宿老と呼べる人間がいない。林秀貞は、離反。佐久間・柴田両者は、動員力を買って、部将・家老クラスに取り立て。
 津島・熱田を押さえた経済力で、次男坊以下の庶子尾張以外からやってきた武士、出自不明の人間を、直接雇って、旗本として、家臣団を形成していった。そして、領国が広がるなかで、旗本から、与力をつけるなどして引き立て、これはという人材を部将化していった。
 それが、信長家臣団の基本的構造、と。独立性の強い部将がごく少ないのが、信長にフリーハンドを与えた側面は大きそうだなあ。


 最後は、「方面軍司令官」と称される柴田勝家、佐久間盛信、羽柴秀吉明智光秀滝川一益神戸信孝といった面々の家臣団構成について。共通して、親族衆・与力・直臣の三重構造になっているが、その構成でバリエーションが出る。また、占領地の領土配分によって、軍団の拡張を求められた。それを怠った佐久間は、改易された、と。
 柴田勝家は、親族と国持ち大名級の与力が目立つ一方で、尾張の与力は非常に小身の者が多い。
 秀吉の場合は、当然の如く親族衆が貧弱。さらに、尾張・美濃・近江衆も弱体。初期では、竹中半兵衛蜂須賀小六の動員力が大きかった。さらに、摂津・播磨衆の存在が大きい。
 明智光秀は、与力の存在が薄く、主だったものでは斉藤利三程度。外様の国持ち与力が細川・筒井。主要な家臣は直接家臣にしたもの。尾張出身者が存在せず、出身地の美濃衆、領国化した近江衆、旧幕臣がメインという独特のものであった。
 あと、明智光秀の反乱の原因が、自家の家督継承問題だったという指摘も興味深い。