渡邊大門編『信長研究の最前線2:まだまだ未解明な「革新者」の実像』

信長研究の最前線2 (歴史新書y)

信長研究の最前線2 (歴史新書y)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2017/08/03
  • メディア: 新書
 信長本の2巻目。尾張統一以前の初期信長の記述が比較的厚いのが、美点。先日の1巻目よりも、おもしろかった。三河方面からの今川の圧力、美濃方面からの斎藤氏の圧力を受けて、尾張の諸勢力もそれと連携。それらのさまざまな勢力を叩き潰して、今川・齋藤を叩き潰して、「天下布武」の道を開いた訳だ。
 全体としては、第一部信長の「基本情報」の真偽、第二部信長の「敵対勢力」との関係、第三部信長と「室町幕府、朝廷」の関係、第四部信長の「宗教政策」と権力の源泉、第五部信長と「商人」の関係で、16章から構成。


 第一部は、信長前史や「信長記」、肖像画などについて。
 本当に尾張には、織田氏がたくさんいるな。守護代の岩倉織田家、そこから別れた清洲織田家、その傍流の小田井織田家勝幡織田家。その中で、最終的に勝幡織田家が覇権を握る。大河川の三角州地域の尾張西部、そして、丘陵が続く東部の端。水上交通でつながる尾張国内。その中で、津島・熱田の2大都市を押さえたのが強みであった。
 あとは、「信長記」の伝本のお話とか、肖像画とか。「信長記」も自筆本以下、比較的流布していて、それぞれの内容の照合が必要とか、太田牛一の子孫に伝わる伝本では、別の伝承が記されていたり。
 流布している信長の肖像画、生前を知る人が描いていて、割合信用できる姿ということなのかね。あの、気難しそうな顔が。


 第二部は、敵対勢力との関係。
 千葉篤志「スムーズではなかった、信長の「家督相続」の現実」は、尾張統一まで。弟信勝や付家老林氏の敵対など、スムーズな家督継承ができなかった。この背景には、今川氏の尾張進出の圧力があった。あと、尾張平定における守山の重要性とか。
 木下聡「信長と美濃斎藤氏との関係とは」は、美濃の斎藤氏との関係。隣国だけに、以前から影響関係は深かった。信秀の時代には、抗争が行われるが、最終的に道三の娘が信長に嫁ぐ形で和睦。道三との信頼関係は長く続くが、道三が息子義龍に討たれ、全面抗争に。斎藤氏の調略は、信長を苦しめた。しかし、義龍が早世すると、信長が攻勢に出る。稲葉山城の陥落も、正確な時期には議論があるのか。
 太田浩司「浅井長政は、なぜ信長を裏切る決断をしたのか」は、浅井長政の敵対の理由。ある種、信長の増長だよなあ。いつの間にか家臣扱いされつつあるのが許せなかった、と。ここいら、徳川家康が従属化を許容したのと、対照的だな。強大な敵を抱えていた徳川とそうでなかった浅井ということなのかねえ。


 第三部は公武関係。
 山田康弘「室町幕府の『幕府」とは何か」は、いろいろな概念が実は、割と曖昧という話。「戦国大名」といえど、簡単には定義できない。「室町幕府の滅亡」も、足利義昭の京都没落でクリアカットできるかというと、そうではない、と。とはいえ、京都没落が一つの画期ではあるよなあ。あとは、戦国時代には、軍事力の論理、果てしない消耗戦を避けて同盟を組む利害の論理、さらに、主君は大事であるという価値観の三つの論理で動いていたとか。
 堺有宏「信長は、なぜ蘭奢待を切り取ったか」は、信長の寺院との関係構築と絡めて、蘭奢待切り取りの意義を考察する。この行為が、奈良の巨大寺院東大寺との関係構築のための手段であったこと。一方、東大寺側も、焼失した大仏殿の復興などの財政的必要から、これを受入れた。似たような、何らかの要求と寺領保護という交換条件の提示は、比叡山本願寺でも行われているパターンである。ただし、この2者は、それを受入れず、敵対を選択している。
 神田裕理「信長の『馬揃え』は、朝廷への軍事的圧力だったのか」は、1581年に京都で、二度にわたって行われた馬揃えの意味を問い直す論考。むしろ、朝廷側が熱望したことで、開催されたもので、朝廷への軍事的威圧はあり得ない。朝廷にとっては、誠仁親王の生母新大典侍の喪中開けのイベントであり、信長にとっては「天下人」としての存在感を敵対勢力に誇示するイベントであった。


 第四部は、宗教団体との関係。
 松本和也「信長とイエズス会の本当の関係とは」は、どの程度信長がイエズス会を厚遇していたかという話。とりあえず、従順に協力姿勢を保ったので、他の宗教並みに好意的だった、と。特にキリスト教に入れ込んでいたわけではない。
 松下浩「信長『神格化』の真偽を検証してみる」は、イエズス会の文書で言及される信長の自己神格化について。「神格化」を行ったと肯定する論者も、「神」が具体的になにを指すかでブレがある。日本側の史料には、一切そういう記述はなく、怪しい、と。
 最後は、安土城天守の復元に関して。写真も、絵も、図面も残っていないので、ある一定程度の想像以上のものにはなり得ない。ローマに送られた「安土山屏風」が発見されれば、絵画資料として、大きな手がかりになり得るが、行方不明と。


 ラストは、堺の商人たちとの関係や茶の湯の話。
 生野銀山の支配と運上支払いをめぐる堺商人・茶人の今井宗久と山名氏の関係。いったん敵対関係で攻撃を受けるが、銀山利権を期待した今井宗久の支援と金策で、礼金の支払いと引き換えに信長から許しを得て、但馬に復帰する山名祐豊。しかし、生野銀山現地を支配する勢力の抵抗もあり、今井宗久は、思ったような成果を得られず、奔走するハメになったという渡邊大門「信長は、生野銀山を直接支配したのか」がおもしろい。
 あとは、信長と堺の関係を追求した廣田浩治「信長と都市・堺はどのような関係だったのか」。三好氏の影響下にあった都市堺は、信長の進出後、徐々に支配下に入っていく。会合衆による自治的支配から、今井宗久、津田宗及、千利休など、信長と個人的関係を作った豪商を代官とした間接(?)支配へと変化していく。茶人として重用され、また、今井宗久はさまざまな特権を得て、巨富を築いた。
 最後の八尾嘉男「『名物狩り』と『御茶湯御政道』の実像とは」は、信長の茶の湯を利用した褒賞システムのお話。足利将軍の旧蔵品であった「東山御物」を再コレクションしようとしたとしたのが、「名物狩り」であった。これに関しては、今井宗久などの堺の茶人の影響が考えられる。また、茶人との交際や名物の下賜などを、恩賞や政治関係の構築に利用するようになったのが、信長の茶の湯である、と。


文献メモ:
柴裕之編『論集戦国大名と国衆6:尾張織田氏岩田書院、2011
戦国史研究会編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011
仁木宏・松尾信裕編『信長の城下町』高志書院、2008